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その日の朝。俺は体がいつもと違うとすぐにわかった。
ああ、ついにきたか。確信に近い予感が俺の年老いた体を駆け抜けていった。
亜夜たちにも俺の異変は伝わっているようで、亜夜は学校を休むと言って聞かない。
「でも今日は期末テストでしょ」
「でも! だいすけが!」
「亜夜、テストは受けなさい。学校は午前中だけだろう? 終わったら部活を休んですぐに帰ってきていいから」
父は昨日のうちに会社に電話をして休みをもらったそうだ。けど亜夜はどうしても学校に行かなければならないらしい。
今にも泣きそうな顔をしている亜夜に、俺は小さな声で一度だけ鳴いた。
大丈夫だよ、亜夜。待ってるから。
「亜夜」
「……終わったらすぐに帰ってくるから」
俺の頭を何度も撫でながら亜夜は震える声でそう言った。
家を出る時間になるまで、亜夜はずっと俺の頭を撫で続けていた。
少しだけ眠って目を覚ますと、体が軽くなっている気がした。
父と母はずっと俺の側にいたらしい。心配そうに俺の頭を撫でながら何度も名前を呼んでくれる。
亜夜はまだ帰ってきていない。
きっと、動けるのはこれが最後だ。俺は足に力を込めて何とか立ち上がった。「だいすけ」と二人が俺を呼んだが、俺は玄関がある方向だけを見て一歩を踏み出した。
さっき感じた軽さが嘘のように踏み出す一歩は重かった。息が苦しい。目が霞む。でも、玄関に行かなければ。向こうに行って、亜夜を待たないと。
なんとか玄関にたどり着くと俺は崩れるようにその場で横になった。
母が細い悲鳴を上げ、俺の意図を察した父は毛布を持ってきてくれた。二人も玄関に座り込み、俺と一緒に亜夜の帰りを待った。
靴の音が間近で聞こえた時には俺の意識はほとんどなくて、目もよく見えなくなっていた。ただ亜夜が「だいすけ!?」と俺の名前を叫ぶように呼んだのが聞こえて、ああ、亜夜が帰ってきたのだとわかった。
「だいすけ! なんでこんなとこに!」
「ここでずっと亜夜を待ってたの。間に合って、よかった」
「だいすけ……」
母の声が細く震えている。父の声もだ。きっと泣いているのだろう。
亜夜が俺の頭を優しく撫でた。気持ちいい。俺は今も亜夜に撫でられるのが大好きだ。
「だいすけ、やだよ、お願い、目を開けて……!」
頭に熱い何かが落ちてきた。必死に目を開けると亜夜が泣いているのが見えた。
亜夜、泣かないで。
そう言いたいのに声は掠れて出てこなかった。
いよいよ意識も朦朧としてきて、三人の声がだんだん遠くなる。
体はもう限界だ。でも、俺にはやらないきゃいけないことがある。せめて、これだけは。
「おかえり」と二度、鳴いた。かろうじて声は出てくれた。三人が一斉に口を閉ざし、亜夜は呆然として俺を見ていた。
お願いだ。亜夜、笑って。
最後に、聞かせて。
俺の頭に触れる亜夜の手がかすかに震えた。
「っうん、だいすけ、ただいまっ……!」
ぼんやりとした視界の中、どうにか見えた亜夜の顔は涙でぐちゃぐちゃで、でも笑っていた。俺の声は、ちゃんと伝わった。
亜夜が笑ってくれた。
もうそれで充分だった。
俺は目を閉じて、襲い来る深い眠りに身を任せた。亜夜の、母の、父の声が遠くなって聞こえなくなる。体が眠りに沈んでいく。
もし俺の心臓が亜夜と同じ速度で動いていたら、もっと長く亜夜の側にいられただろうか。そんなことを思う。
でもそれは何か違う気がした。俺は俺だから亜夜と笑って、幸せに過ごすことができたのだろう。
最後に聞いた「ただいま」の声は、俺が深い眠りの底に着くまで、ずっと耳に残っていた。
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