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ガラス越しに亜夜と初めて目が合ったとき、なんとなく俺はこの女の子の家に行くんだろうと思った。
初めて店員以外の人間に抱っこをされた。亜夜は俺のふわふわの毛並みがたいそう気に入ったようで何度も頬ずりをした。亜夜の父と母がテーブルで店員と話をしている間、亜夜は飽きずに俺を眺め続けていた。何かぶつぶつ呟いていたが、ガラスが分厚くて聞き取れなかった。
「だいすけ、だいすけにする!」
今日から俺の家になる場所に連れ帰られてから、亜夜は大きな声でそう口にした。
だいすけ。これは、俺のことなのだろうか?
何度も俺の方を見ながら亜夜がそう呼ぶものだから、試しに一度「くぅん」とかわいらしく鳴いてみた。
「だいすけ、こっちおいで!」
「へぇ、賢いのね。自分の名前だってもうわかったのかしら?」
感心する母を横目に、俺はそうだろう、そうだろう、と亜夜に撫でられながら何度も尻尾を振った。
俺は頭がいいのだ。店では飯の時間になると自分から鳴いて時間を知らせていた。ぼさぼさ頭のあの男はいつも飯の時間から少し遅れて皿を持ってくる。時間を知らせてやるのは俺の役目だったのだ。
この家では飯の時間が遅れることはなかった。亜夜が嬉々としてカリカリの皿を持ってきて、俺が食べ終わるのを近くで眺めていた。見られるのにも慣れている。俺の黄金色のふわふわした毛並みは店でいつも人気だったからな。
家では夜以外、自由に辺りを散策することができた。家の中には知らないものがたくさんあって、しばらくの間は毎日冒険で忙しかった。
いつだったか、落ちていた靴下を拾って振り回していたら母に怒られた。あの顔は思い出したくない。亜夜が見せてくれた絵本に出てきた「おに」によく似ていた。少しちびりかけて、それからは落ちている靴下には近寄っていない。
家の探検は楽しかった。外の景色がよく見えるガラス窓の近くが特に好きだったが、一番好きな場所は玄関だった。
玄関にいれば、亜夜が帰ってくる。耳もいい俺は亜夜が帰ってくる足音を聞き分けて、音が聞こえれば玄関に走った。
「ただいま!」
扉を開けた亜夜が満面の笑みを浮かべる。俺は「おかえり」と二度鳴いて、ぶんぶん尻尾を振った。手を洗ってきた亜夜が俺の頭を撫でる。ほのかな石鹸の匂いと、草木や亜夜の匂いが混じっている。その日どこに行ったのかも俺にはわかる。この匂いは近所の公園だ。
家で暮らしてしばらく経つと、亜夜は赤色の「らんどせる」という物を背中に背負って定期的にどこかへ出かけるようになった。人間は「がっこう」に行かなければならないらしい。
まったく難儀なものだ。そんなところに行くより俺と散歩に行く方が有意義な時間を過ごせるだろうに。
らんどせるを背負った亜夜が「ただいま!」と言って帰ってくる。俺は欠かさず「おかえり」と二度鳴いて、口に咥えていた散歩バッグを亜夜に渡した。
亜夜が家に帰ってきたら待望の散歩に行けるのだ。
「だいすけ、見て。あれが私の通ってる小学校だよ」
そう言って亜夜が大きな公園のような場所を指差す。
なるほど、あれががっこう。亜夜と同じくらいの歳の子どもがボールを追いかけながら楽しそうにはしゃいでいる。公園より広くて走りがいがありそうだ。小さな男たちはボールを白く四角いケージに入れようとしているらしい。
見る目があるな。あのくらいのボールは一番追いかけがいがあるのだ。
残念ながら俺はあそこに入れないと亜夜に言われ、期待をしていた俺は尻尾をしょんぼりと下げながら散歩コースに戻った。俺のアピールに気づいていないのか、亜夜はいつも通りニコニコしながら俺の少し後ろを歩いていた。
家に帰ると亜夜が俺の足を拭く。濡れるのは嫌だが、利口な俺はちゃんと足を差し出す。これを続けていればいつかあの広い公園に入れるかもしれない。亜夜は俺がいいことをすると、えらいと褒めて笑ってくれるから。
亜夜のらんどせるは月日が経つにつれ、しんなりしていった。
俺はこいつがあまり好きではない。散歩から帰ると亜夜はこいつから「しゅくだい」を取り出して俺を放っておくのだ。
亜夜、遊んで、と俺は精一杯かわいい声を出しておもちゃを足に擦りつける。
「だいすけ、宿題が終わったら遊ぶから」
そう言って亜夜は申し訳なさそうな顔をする。
ほら、また。こいつから出てくる「しゅくだい」のせいで亜夜は俺と遊びたくても遊べないのだ。
仕方なく亜夜の足元に寝転ぶ。らんどせるなんてもっとしんなりして、しわくちゃになってしまえばいい。あれを背負えなくなったらもう「しゅくだい」が出てくることもなくなるはずだ。
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