「ただいま」を聞かせて

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 そう思っていたが、残念なことにランドセルが背負われなくなっても宿題はなくならなかった。  ランドセルがなくなると、今度は「せいふく」という物が現れた。亜夜は毎日それを着てまた学校へ行く。ランドセルの代わりに「つうがくかばん」を肩に掛け、ピカピカの靴を履いて出ていくようになった。 「だいすけ、ただいま!」  だが靴の音が少し変わったくらいで俺の耳は誤魔化せない。帰る時間が遅くなろうとも俺は玄関へ走って亜夜に「おかえり」と言った。  亜夜は「ぶかつ」を始めたらしい。帰る時間が遅くなったのは「ぶかつ」をやっているからだそうだ。空が暗くなってから帰ってきても亜夜は俺の散歩を欠かさない。いつもの散歩コースを歩きながら、学校であったことを聞くのが日課になった。  亜夜は絵を描いているらしい。ランドセルを背負っていた頃から亜夜は絵を描くのが好きだった。  たまに描いた絵を見せてくれると、そこには俺の姿があった。黄金色のサラツヤした毛並み、垂れた耳、くりくりした大きな目にゴージャスでふさふさの尻尾。さすが亜夜。俺のことをよく分かっている。  亜夜と遊ぶ時間が減ることは悲しかったが、こうやって絵を見せてもらえるのは嬉しかった。ありがとうの意味を込めて思いっきり尻尾を振ると亜夜も笑ってくれた。  俺は亜夜が笑っている顔を見るのが好きだ。亜夜が嬉しいと、俺も嬉しくなる。  だから亜夜が半泣きになりながら「だいすけ、どうしよう」と言って一枚の紙を見せてきたときは猛烈に怒りを覚えた。学校には「もし」というものがあって、その結果がよくなかったらしい。 「これじゃあ志望校に受からないよ……」  亜夜を悲しませるものは許さない。紙をぐしゃぐしゃに破いてやろうとしたが、その紙は大切なものらしい。仕方なく紙を破ることは諦めて、ベッドに突っ伏して動かなくなった亜夜の隣に寝転んだ。  首だけを動かして亜夜が俺の方を見る。暗い顔をしていた亜夜の頬を舐め続けていると、泣きそうだった亜夜の顔には少しずつ笑顔が戻ってきて、もう一息だと思った俺は亜夜に思いっきりじゃれついた。 「ちょっと、だいすけ! くすぐったい!」  すっかり笑顔が戻った亜夜の顔を見て俺は満足した。  亜夜は机に置きっぱなしにしていた紙をもう一度見て、きりりと目に光を宿して椅子に座った。俺は亜夜の足元に寝転んで、カリカリとペンを動かす亜夜の側にいた。  亜夜は空が暗くなってもずっと机に向かっていた。たまにペンの音が聞こえなくなるときは立ち上がって亜夜の腹を前脚でつつきながら数度鳴いた。  俺も眠かったが、我慢した。だって亜夜が頑張っているから。  そんな努力の甲斐あって亜夜は「しぼうこう」に合格したらしい。 「だいすけ、ただいま! 受かった! 受かったよ!」  俺が「おかえり」と二回鳴き終える前に亜夜は飛びついてきて、危うく転んでしまうところだった。大人になった俺だから耐えられたが、子犬の小さな体では亜夜の体に潰されていただろう。  その日の散歩は楽しかった。亜夜はずっと笑っていて、だから俺も嬉しかった。  いつもより少しだけ遠回りをして、川沿いの夕日を二人で眺めた。きらきらした夕日はとてもきれいだった。
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