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"おかえりなさい、孝光さん"
いつもならただいまと言えば、帰ってくるはずの音。
柔らかで透き通った、心地の良い声がしなかった。
それどころか、電気もついていない。
何かあれば連絡はしてくれるはずだ。
もしかしたら、昼間に疲れて眠ってしまったのかもしれない。
ゆっくりと廊下を歩いてリビングまで向かうと、カーテンが開いていた。
見慣れた夜の街明かりを眺めながら、静かに閉める。
振り返ってみても恋人の姿はない。
それなら他の部屋だろうか。
手洗いとうがいを済ませ、寝室の扉をそっと開いて覗き込む。
いつものように彼が整えた綺麗なベッドがあるだけだった。
「おーちゃん……?」
もしかしたら出て行ってしまったんだろうか。
胸の奥を過る不安を、首を振って打ち消す。
一つずつ扉を開けて部屋を確認していったけれど、どこにもいなかった。
「うそ、やろ……?」
念のためにスマホを開いて確認する。
直接関係ない芸能人の話とか電車がとまっただとかの通知があるだけ。
彼からの連絡はどこにもなかった。
何か怒らせるようなことをしただろうか。
今日の出来事を振り返ってみる。
オレは外で仕事があるので、おーちゃんと最後に一緒に過ごしたのは朝だ。
起きた所から出る所まで思いだしても、優しい笑顔しか浮かばない。
かわいいなぁ、と口元が綻んだけれどそんな場合ではない。
自分の記憶よりなにより、本物のおーちゃんのが可愛いに決まっている。
そしてリアルタイムに可愛さは更新され、眩しさすら感じる。
「……見つめすぎたんか?」
真剣に考えた結果を音にして、自分で何を言っているんだと首を振る。
朝ごはんのおにぎりの海苔ついてましたか!? とか。
そんなに見られたら穴が開いちゃいますよ、とか。
じゃあ僕も見つめ返しちゃいますからね、だとか。
そういう、ただお互いに見つめ合う穏やかな時間が過ぎるだけ。
おーちゃんはそんなことでは怒らへんし嬉しそうにしてくれる。
もしも何かしてしまったのならば心当たりがなさ過ぎて、いっそ不甲斐ない。
スーツのまま玄関の床に座り込んで、首をかしげる。
頭の中に浮かべるおーちゃんはかわいい。
真剣な作業に取り組んでいる時は、時々格好いい。
好きだな……と思ったけれど今はそんな場合ではない。
「事件に巻き込まれたり……いや、ああ見えて案外タフな子やから……」
やっぱり、出て行ってしまったんではないのか。
胸の奥をどうにもならない寂しさが駆け抜けていく。
違う、と言い切りたい。
けど、人の心の中までは好き合っていても分からない。
優しい子だから、最後まで笑って付き合ってくれていたのかもしれない。
「なんやあったんならそれもしゃーなし、なぁ……」
はぁ、とため息をつくとドアの向こうでバタバタと足音がした。
思わす顔を上げると、ガチャリと鍵が回り、ドアが勢いよく開いた。
「わぁああ遅くなっちゃった!! 孝光さん帰って……」
「おーちゃん!?」
「来てるゥ!?」
開けたドアを閉めていたのと、明かりをつけていたので気づくのが遅れたらしい。
オレの顔を見て分かりやすく飛び上がると、分かりやすく申し訳なさそうにした。
「ご、ごめんなさい孝光さん!」
「えぇぇな、何? 別にええよ。どないしたん? 怪我とかない?」
思っていたより動揺していたらしく、オレも早口になってしまった。
それでもおーちゃんは嬉しそうに笑ってくれた。
「怪我とかはないです! 元気いっぱいです!」
「さよか、ならよかったわ。どこ行ってたん?」
「お隣さんです!」
「おとなり……?」
「はい! お肉分けて貰ってたんです!」
「おにく」
良く見れば、おーちゃんの手にはビニール袋が二つ下がっていた。
実をいうとおとなりさんを正直、オレはあまり知らない。
生活時間帯が違うんだろうなと思っているので、夜は音を立てないようにしてたぐらいで。
それ以外は顔を合わせることもなく、マンション内の交流会もあまり行かないので誰が誰かまでは知らない。
「お孫さんの車で大型スーパーに行って来たそうなんですけど」
「ほ、ほう……?」
「張り切って、あと楽しくて買いすぎちゃったみたいで」
「ああー色々ある、言うもんなぁ」
「はい! それで、皆さんでエレベーターまで運ぶのが大変そうにしていたので、お手伝いしたんです」
「ほー……そら、ええことしたなぁ」
「皆さんにも褒めて貰いました!」
「そうか」
「はい。それで、『食べきれないのでおーちゃん居る?』って。お肉を」
「……なるほどなぁ」
嬉しそうに玄関口で話すおーちゃんと、少し汗をかき始めたビニール袋を交互に見る。
「そのお肉、火ィ通してあるん?」
「ハッ! 冷凍なので冷やさないとです!」
「ほな、もう靴脱いだりしとるオレが冷やしとくわ。ビニール袋貸して」
「あ、はい! お願いします!」
両手で頭を下げながら差し出して来たので、ちょっと笑ってしまったけれど受け取る。
あわあわしながら靴を脱ぐのをこのまま眺めていたいが、折角のお肉が悪くなるので背を向ける。
廊下を歩き始めると、おーちゃんが大きな声を上げた。
「あ!」
「どしたん?」
「言い忘れてました! おかえりなさい、孝光さん!」
「ああ、そういうこと?」
「はい! 大事な事ですから」
「……そっか」
別にええのに、と思いながら少し前にその声が聴きたくてたまらなかったのを思い出す。
さっきまであった不安やらなんやらが、もう何一つなくなっていた。
そこに居る愛しい恋人へ、オレは今日二回目のそれをいつもより柔らかな音で口にした。
「ただいま、おーちゃん」
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