一花は四つの家がある

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 水に濡れた茶色の毛を身体に張りつかせながら、二歳のレモンは犬特有の俊敏さで跳ねるように暴れ回る。  プールから飛び出して、庭を走り回ってはまたプールに飛び込んでくる。  水は汚れるし、その度に菫さんと私は跳ね上がった水飛沫を浴びているけれども、私たちは頓着しない。  ここは住宅街だけど、家の庭の前は空き地になっている。誰かに聞かれる心配もないから菫さんと私はこの庭の縁側でよく色々な話をしたりする。  菫さんは私にとって、お母さんにも学校の友だちにも話せない心の内を話せる唯一の人だ。 「お母さんに一花ちゃんの心をちゃんと伝えられたらいいね」  「うん。そうなんだけどさ。ねっ、菫さん。運命の赤い糸って、一つじゃないのかな?」 「そうねえ。十本ある指の全部に赤い糸がついてるのかよって突っ込みたくなるような人もいるものね。親指から人差し指、中指と……全部についてるのかしら? 片方の小指だけじゃ足りないのかしら? 欲張りね」 「いや、それはただの浮気性でしょ。そうじゃなくて。小指でしょ? 糸が切れても、小指に新たな赤い糸がまた絡まるんだよ。だからね、引きつけあったら仕方ないとしか言えないんだよ。なんだよ自分で結論出しちゃった。あーあ、なんだかなあ」    菫さんはふ、ふ、っと笑って肩をすくめると、空を見上げた。  薄群青の空に一筋の飛行機雲が伸びている。斜め上へと描かれて高く遠くへと誘っているようにみえる。   「一花ちゃん。とぶ、って言葉知ってるでしょう?」 「空を飛ぶとか?」 「足へんに(きざ)すと書く、()ぶ。地面を蹴って高く跳ぶ、ジャンプするという意味の。一花ちゃんには高く跳んで掴み取って欲しいな」 「何を?」 「自分の道を。自分の脚で地面を蹴って、自分の力で高く高く跳んで掴み取って欲しいな」  菫さんは両腕を上に上げて広げて、何かを掴み取るかように掌をぎゅっとした。  それから両腕を身体の横に下ろすと、少し淋しそうに呟くように言った。 「私は跳べなかったからなぁ。いつから諦めたのかな。跳びたかったけれど」 「これからだって菫さんはきっと跳べるよ。それにね、その意味と多分、いや全然違ってるかもしれないけれども、私ジャンプするみたいに跳ぶよ。もうすぐ、うわぉ! って」  私は両手を使って菫さんに襲いかかるようなジェスチャーをした。  菫さんは小首を傾げて、 「一花ちゃん跳ぶの? 跳んだら教えてね。楽しみだな……そっかぁ、私も跳べるかー」 「ねえ、菫さん。恋も跳ぶの?」 「おっ。十二歳は分かりませんか?」 「分かんないよ。そんなの。だから訊いたんだし」 「恋かあ。跳んで手に入れる恋は執念かなあ。跳ぶのは一途な恋かな? 情熱的な恋かな? 難しいなあ。その恋、その恋、人それぞれだし。静かな恋も優しい恋もあると思うけど」    お父さんとお父さんの彼女の場合は、赤い糸を手繰り寄せるために、執念で自分たちの恋を手に入れたのかな……。 「一花ちゃん、もう時期誕生日だね」  菫さんが話題を変えた。 「菫さん、一花でいいよ。ちゃんはつけなくて。そう、もうすぐ十三歳」  十二歳というと幼くて、十三歳というと少し大人びた気がする。個人的な見解というやつだけど。 「お祝いのケーキを作るね。レモンくんには蒸しチキンを進呈しよう」  斜め前に投げ出した私の脚に、器用に顎をのせて、プールの中でうたた寝を始めたレモンの耳がぴくりと動いた。 「わんぱくレモンくんもお疲れのご様子だからそろそろ帰りますか。レモン、一花ちゃんの言うことを聞いていい子にするのよ」  菫さんはレモンの頭を撫でて立ち上がった。  大丈夫、菫さん。レモンはわんぱくで頼りになるいい子です。  跳ぶ。私は跳ぶ。     私は相棒のレモンと鬼退治をする。  やるときゃやる。それが私だ。なんて。  私はお父さんとお父さんのお相手の彼女の住むマンションに行って襲撃する。  決行は二週間後。私の誕生日だ。梅雨に入っているだろう。
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