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「わあっ。一花ちゃん、その青いビニールプール懐かしいわねぇ」
庭で相棒のレモンに水遊びさせていると菫さんが話しかけてきた。
買い物帰りの様子で、重たそうに両手にエコバッグを下げて額に汗を滲ませている。
「一緒にどうですか?」
菫さんを見上げて悪戯っぽく言う。
「いいわね。ちょっと待っててね」
菫さんの顔が綻んだ。
暫くすると菫さんはふわっとした生地の紺のショートパンツ姿で現れた。
手には二本のアイスキャンディーと小さなタッパーを持っている。
私の隣に腰掛けるとプールがゆらりと揺れた。
「あら、一花ちゃん。無理したら壊れそう」
「大丈夫。このプール案外頑丈なの。昨日、お母さんが処分しようとしてたのを見つけちゃった」
菫さんは私に一つアイスキャンディーを渡しながら、バランスをとるように向かいのふちに浅く腰かけた。
すらりと伸びた白い脚に大人の女性を感じて、なんだか眩しい。
「うわぁ、気持ちいい! これは最高ね。もうすぐ梅雨入りだし、それが過ぎたら今度は酷暑がくるもの。今日はプール日和ね。よかったわねレモン。はい、あなたにも」
菫さんはタッパーから氷のかけらを出してレモンに差し出した。
ガリガリと小気味よい音を立ててレモンは氷を齧る。
今日の空と同じような色だな。アイスキャンディーを空にかざすと、私も頬張った。空色は甘い。
この家に越して来たのは、お向かいに住む新婚の菫さん夫婦と同じころだった。
私が小学生になる時だから六年あまり前。
菫さん夫婦が私を可愛がって家に呼んでくれたりしているうちに、家族ぐるみで親しくなっていった。
菫さんは働いていたけれど、一年前に死産で子どもを亡くしてから家にいるようになった。
お母さんが菫さんには心の休養が必要なんだと言っていた。
「お母さんは?」
菫さんがもう一つレモンに氷を差し出しながら訊いてきた。
レモンは数秒で氷を平らげる。
「デート」
私は足をパシャパシャしながら答えた。
レモンがその足にじゃれつく。
「そうだったの」
菫さんの眼差しは優しくて包み込むようだ。
お母さんからひと月ほど前に紹介されたのは、四十歳くらいのおじさん。
「どう?」なんてお母さんに訊かれても、私にはおじさんだな、としか思えなかった。だから、「おじさんとしか思えないけれど、お母さんの好きなようにすればいい」と答えた。
多分どんな人を紹介されてもそう答える。
お父さんは一年前に家を出ていった。
レモンと、お母さんと、私を、この家に置いたまま。
お父さんとお母さん二人の間では離婚することでは話がついているそうだ。
私が訊いた最後のお父さんの言葉は、出ていく前の夜に訊いた、「ただいま」という重く疲れたようなお父さんの声。
あの声がお父さんの私たちへの気持ちなんだと思う。
もうお父さんがただいまをいう家はここじゃない。彼女と住む家だ。きっと優しい声でただいまを言うのだろう。
そんなお父さんを私は許せないけど。
お父さんとその彼女さんは私の手で成敗しなければならない。
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