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異変
仕事を終えて家に帰ると、一緒に暮らす婚約者の姿が消えていた。
スマホはテーブルの上に置きっぱなし、財布は日常使いしているバッグの中。衣類や化粧品など彼女の持ち物は、覚えている限り変わりない。
部屋の電気はついたまま。作るだけ作って待ってくれていたのか、夕飯には手をつけていないようだった。
買い忘れた何かがあって、財布も忘れるほど慌てて出掛けたのか。タイミング悪くちょうどすれ違ったのか。
冷静に見てそう考える自分もいる。ただ、それを越えるくらい胸騒ぎがした。
覚えがある。最近、彼女……花世の様子は明らかにおかしかった。
今日は急に冷える。どこかを薄着で彷徨っているかもしれない。そう思うといてもたってもいられず、花世のカーディガンを持って家を飛び出した。
前の職場で精神的疲労を募らせた花世が、会社を辞めようか、クリニックに通おうかと悩んでいた頃に僕の転勤が決まり、今じゃないかもしれないけれど今しかない、と半ば勢いでプロポーズをした。入籍と結婚式は心が落ち着いてからでいい?と言う花世の返事を聞けた時は本当に幸せで、何もかもが上手くいくと心の底から思えた。
実際、円満に退社できたことと新しい環境への期待感からか、花世は以前のような笑顔を取り戻していた。
引っ越してきてからも楽しそうに近所の探索によく出掛けていて、休日になると気になったお店に僕を引っ張って行った。そんな日々がとても大切だった。
最近の花世の異変を僕以外に感じ取ってくれていた人がいるとしたら、一人しかわからない。気付けば花世を探す足が無意識にそちらに向かっていた。
「素敵なおばあさんに出会った」と花世が飛び切りの笑顔で滝川さんの話をしてくれたのは、夏の始まる前だ。
屋根に風見鶏をつけた緑色のヨーロピアンな滝川さんの家には、立派な芝生の庭がある。庭から出入りが出来る広い書庫には、アンティークなインテリアを素敵だと褒めるのも忘れるくらい、沢山の書物がびっしりと並んでいた。
滝川さんの父親の遺したものがほとんだそうだけど、中にはどうしてもここに置いてほしいと頼まれた本や、自分のモノと交換してほしいと頼まれた本もあるそうだ。
花世に連れられて僕が行った時、滝川さんは「本を減らしたいのに少しも減らないの。気に入ったモノがあったら持って行って頂戴。代わりの本はいらないわ」と困ったように笑っていた。花世が本を読みがてら遊びに来てくれるのも嬉しいと言っていた。その時、初めて近所に知り合いがいない花世の寂しさに気付いた僕は、滝川さんにとても感謝した。
――きっと、滝川さんなら花世の行き先に心当たりがある。
願うような確信めいた気持ちで走り続けた。
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