迷いモノ

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迷いモノ

「まさか……」と言ってしまわなかっただろうか。鍵を開ける手が震えていなかっただろうか。不安になっている人に憶測で物を言いたくない。 沢田さんが帰るのを見届けてから、書庫の奥にある四つん這いにならなければ入れない引き戸の前に膝をついた。 ここに置いてある本は、父いわく「迷いモノ」だ。 沢山ある書物に引き寄せられるように来てしまう不思議な本が世の中にはあるそうで、父が買い求めたものでも、知り合いが置いていったものでもないらしい。 ――読んだからといって悪さをするわけじゃない。ただ、惹かれ合ってしまったら何かが起きてしまうかもしれない。 父が言う通り、私がこの部屋の本を読んでも何も起こらなかった。 夫と別れて、この家に戻って来た時、久しぶりにこの部屋に入った。 見覚えのないモノがあったり、見かけなくなったモノがあったりで、迷いモノも顔ぶれが変わっているようだったけれど、一際異様な空気を放っている本があった。 紫色の布地に金色の刺繍で文字が入れられているけれど、何語なのか私には読み取れなかったし、美しい本だと思っただけで、この部屋から持ち出すこともしなかった。 父が亡くなり私も歳を取り、書庫の書物を少しずつ処分しようと考えて庭を解放するようになった。どうせ最後には捨ててしまうのだろうけれど、少しでも望む人の元にいけばいいと思ったからだ。 花世ちゃんと知り合ったのは、ハンドメイド好きの近所の方達を誘って、庭でフリーマーケットを開いた時だ。 アンティーク好きで本も好きだという花世ちゃんは、書庫をとても気に入ってくれ、翌日に再度訪ねてきてくれた。 ここが気になると一発で迷いモノの部屋を見つけたのにも驚いたけれど、あの紫色の本を持って「置き換えの書……」と当たり前のように読み上げた時は、一瞬、声を失った。 「これが読めるの?」 「え?はい。あれ、でも中は何も書いていないんですね。こんなに立派なのに」 「え?」 前にこの本を見た時、読めなかったけれど中にも何かが書いてあったはずなのに、花世ちゃんの手の中にある本には確かに何も書かれていなかった。 何だか怖くなって、迷いモノの部屋から出たのを覚えている。 ――きっと関係ない。考えすぎだ。 鼓動の音が激しくなる中、祈るような気持ちで迷いモノの部屋に入った。
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