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「すみません。私には家で帰りを待つ妻がいますので」
営業スマイルで俺が既婚者だと虚言を吐けば、彼女は一瞬眉をひそめて謝りながら手を引いた。厄介な縁を結ぶ前に絶ちきっておかないと。
ちょうど空車表示のタクシーが通りかかり、手を上げて停車を求めた。少し先の路肩に止まったタクシーは後部座席のドアを開ける。山辺さんに乗るよう目を向ければ、彼女の背後に黒い影が見えた気がした。
タクシーに乗り込む彼女を見て何気なく運転手に視線を移せば、どこか見覚えのある顔が。協力してくれたあの運転手だった。彼は後ろを振り返り山辺さんを見ながら行き先を尋ねる。しっかり彼女の顔を見ながら。
なんの疑いも持たない彼女は、行き先を告げると名残惜し気に俺を見上げる。俺には別のものが見えていて、それどころじゃなかった。山辺さんの周りにまとわりつく黒い靄のような人影。あれは生き霊だ。今まで見えなかったのは俺が見ようとしなかったからか、無意識に目を反らしていたか。
よくよく考えてみれば、最近遠くから引っ越して来た山辺さんの家を特定して合鍵まで作り部屋に隠れて住んでいたなんて、短期間で出来るようなことではない。合鍵を作って持っていたかどうかも実際に見たわけじゃなくて俺の推測に過ぎない。本当に山辺さんの帰宅を待っていたのは……。
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