錬金術師の逃亡。

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錬金術師の逃亡。

「アーリア、これもお願いね」  机の上に置かれた納品依頼書を見て、アーリアは顔をひきつらせた。 「でも、私はほかの仕事が……」 「これがないと、あちらが大変困った事になるのよ」 「でも……」  依頼書には、アーリアの上司である彼女を指名する旨が記入されている。  もし、アーリアが期日までに品物を用意したとしても、当然のように上司の制作した物として提出されるのだろう。 「…………」  なまじアーリアが優秀だったため、上司は何かと仕事を押しつけてきた。  そして、それらは全て上司の手柄となっている。  同僚達は見て見ぬふりどころか、にやにやと笑いながらアーリアと上司のやり取りを横目で見ていた。 「今日も、また帰れない……」  暗くなった研究所に、アーリアは一人ぽつんと残されていた。  誰も助けてくれない。  優秀なアーリアが妬ましいのか、同僚達は皆で行く昼食にさえ誘ってくれた事はなかった。  じわり、とアーリアの目に涙が浮かぶ。  王都の錬金術学校を優秀な成績で卒業し、王立の錬金術研究所に入れた時はあんなに喜ばしかったのに。 「少しだけ、少しだけ寝よう……」  机にうつ伏せて目を閉じる。  意識する間もなく、アーリアは眠りに落ちた。 「何やってんだよ、お前!!」 「え、でも、それは課長が……」 「使えねーな」  吐き捨てるように、見慣れない服を着た中年の男が言った。  ここは、どこなのだろう……?  アーリアは首を傾げた。  皆、同じような服装をして机に向かっている。  机の上には光る箱のような物が置かれ、それに表示される字や絵を見ながら忙しく手を動かしていた。 「ほんっと、お前ってグズだよな」  男の暴言がひどくなっていく。 「能無しなんだから、とっとと辞めちまえよ」 「…………」  その書類は男が押しつけてきたものだった。  しかも、期日を過ぎてから。  本来、自分がするべき仕事ではなかったのに。 「……………………」  アーリアの手は、無意識の内に机の上の湯呑みを掴んでいた。  うん、大丈夫。冷めている。  火傷させて傷害罪とかになったら、嫌だものね。  アーリアは、思い切りよく課長に冷めたお茶をぶっかけた。 「能無しはてめえの方だろうが! あほんだら!!」  そこで、アーリアは目を覚ました。 「思い出した……」  あれはアーリアの前世だった。  新卒で入った会社はいわゆるブラック企業といわれる所で、理不尽な仕打ちが横行していた。  特に課長は、若い女性を選んで罵っていたようだった。  多分、男性相手だとやり返されるのが怖かったのだろう。  あの日も課長は罵詈雑言を吐いていたが、我慢の限界がきた前世の自分が突如としてブチ切れたのだった。  呆気に取られている課長には目もくれず、以前から用意してあった退職願いを叩きつけて会社を辞めたのだった。  辞めてしまえば、何故あんな会社にしがみついていたのか、と自分でも首を傾げてしまうほどであった。 「ううん、今はそれどころじゃないわ」  首を振り、アーリアは立ち上がった。  前世からの経験で、あの手の連中はどんなに虐げていたとしても、いざ相手が辞めると言い出せばなんやかんやと理由をつけて引き留めようとする事は分かっている。  自分の評価を気にしての事なのか、便利に仕えるものがなくなるのが惜しいのか。  どちらにせよ、そんな事はアーリアには関係のない事だ。  自分の私物を錬金術で作ったマジックバッグに入れていく。  これほどの大容量の物は、今いる研究員の中ではアーリアにしか作れない。  アーリアを指名して依頼書がきていたものに関しては、とうに提出済みである。  今あるのは、上司や同僚に押し付けられた案件だ。  仕上げる義理はない。  同僚達が全てをアーリアに押しつけて、自分達はそそくさと帰って行ったのが今は幸いした。  アーリアがしている事を見咎める者は誰もいない。  最後に書き置きを残す。  アーリアの書いた物だと分かるように、溶かした蝋の上に特殊な判を押す。  これは身分証明書代わりでもあり、もちろん判子として使用する事もある。 『辞めます。さようなら』  少しだけ考え込み、やはりアーリアにしか作れない透明インクで書き足した。  これは機密書類などにも使われているインクで、特殊な状況でしか読む事が出来ない。  上司はこのインクの事も、アーリアではなく彼女が制作したものとして提出していたらしいが。 『くそったれ!!!』  書き置きを見返し満足気に頷くと、アーリアは研究所を出た。  遠くの空が白み始めている。  アーリアはマジックバッグの中から絨毯を取り出した。  ふわりと絨毯が宙に浮く。  上司の知り合いの子供が欲しがっているから、と作らされた〈空飛ぶ絨毯〉である。  結局、出来上がる前にその子供が飽きてしまい絨毯は無用の物となった。  仕事ではないから、とアーリアの私費で作らされた上に材料費すら払ってくれなかった。  アーリアは、そろそろと絨毯の上に乗った。  絨毯が、高く空へと舞い上がる。 「行こう!」  滑るように、絨毯が動き出す。  王都を見下ろし、アーリアは笑みを浮かべた。  行くのだ、どこか遠くに。  自由に。  そう、アーリアは自由になるのだ!  前世とは違い、アーリアは家族にも恵まれていなかった。  幼い頃から、両親に家の用事をさせられていたのだ。  ほかの兄弟達は、当たり前のように遊び回っていたというのに。  病気になっても、アーリアだけは医者にみせてもらう事もしてもらえなかった。  だが、優秀だったアーリアを学校の教師が王都の学校へ推薦してくれた。  家から離れられるなら、とアーリアは必死に勉強した。  王立の研究所に勤めるようになると、両親はまるで自分の手柄のように自慢していた。  そして、当たり前の事のように多額の仕送りを求めるようになった。  アーリアに対して、親としての義務などろくに果たしていなかったというのに。  搾取する側の人間は、それを当然の権利のように思っている、と前世の一部を思い出したアーリアは気づいたのだ。  こちらがどんなに歩み寄ろうとしても、彼らは感謝の気持ちなど欠片すらいだかない。  搾取する相手が、される事を厭うているなどと夢にも思わないのだ。  彼らと話し合おうなどと思う事すら、時間の無駄でしかない。    ならば。  どこか、うんと遠くへ。  自分の事など、誰も知らないような場所へ。  今度は、誰にも利用されないように。  〈空飛ぶ絨毯〉に乗り、アーリアは遠い国を目指した。  アーリアは、自由になったのだ!!  日が暮れるまで飛び続け、アーリアは遠い国までやってきた。  昼食はマジックバッグにいつも入れているパンとミルクですませていた。   ろくに休む暇も与えられずに、ただ流し込むだけだった作業とは違い、空の上で食べたパンは香ばしくて美味しかったし、ミルクは優しい甘さだった。 「この国でいいかな」  見下ろした限りでは緑も多く、小麦畑は金色に輝き豊かそうな国であった。  街は整然としており、大きな争い事もなさそうである。  アーリアは街の外れで絨毯から降り、歩いて街の中に入った。  やりたい事は決まっていた。  錬金術の工房をかまえたいのだ。  アーリアは錬金術自体はとても好きだったのだ。  もし、自分の店を持てたのなら。  何度、そんな風に思った事だろう。  幸い、資金はある。  王立の研究所という事で元々給与が高かった上に、アーリアには使う暇もなかったからだ。  家に仕送りさせられていたとはいえ、それでもけっこうな額のお金が貯まっていた。  仲介所に行くと、街の外れにある物件を紹介された。  一階には店舗と工房が、二階には小さな部屋が2つほどあり、そこが住居用スペースのようだった。  今は雑草だらけだが、裏庭には小さな畑がついていた。  まさに理想的な物件であった。  元々、錬金術師の老人が店を営んでいたが、年老いたために店を閉めて売りに出したという事らしかった。  錬金術の店を開いてくれるなら、という条件でアーリアは安価でその物件を手に入れる事ができた。  しばらく手入れされていなかったためかホコリが目立ったが、アーリアにはそんな事は気にならなかった。  いそいそとマジックバッグから掃除道具を取り出す。  自動で動く箒に、空飛ぶはたき。  いつでも綺麗な水が入っているバケツに、汚れると自らバケツに入って綺麗な状態に戻る雑巾。  どれも、アーリアが錬金術で作った物だった。  アーリアは自らも雑巾を手にして、窓をぴかぴかに磨き上げた。     好きなものを作って、売って。  温かい食事を取り、夜はベッドで眠る。  そんな当たり前の事に心を弾ませながら、アーリアは夢中になって掃除をしていた。  なにしろ、ここはアーリアの店なのだから。 「私だけのお城!!」  歌うように、アーリアは言った。  工房には、古ぼけてはいたが錬金術の道具がそのまま残されていたし、裏庭の小さな畑は雑草を抜くと、根がのこっていたらしいハーブがたくましく芽を出した。  夜ベッドに入っても、身体の方はひどく疲れているはずなのに興奮してなかなか寝付けなかった。 「明日は、材料を揃えて薬を作ろうかな」  実は、アーリアが掃除をしている間にも何人かの人が店の方をのぞきに来ていたのだ。  錬金術師が店を開く、とどこからか聞きつけて買いに来たらしいのだが、あいにくとまだ店を開くどころか品物の一つも用意できていなかった。 「がっかりさせちゃったわね」  まずは品物を揃えて。  回復薬に毒消し、それと手荒れに効果のある香油。  マジックバッグは便利だけど、高価だから目玉商品として一つだけ作っておこう。  ああ、主婦の人達だけでなく商人や酒場で働く人達も自動で動く箒を欲しがっていたっけ。  明日が来るのが楽しみで眠れない、などずいぶんと久しぶりだ。  錬金術の学校に初めて行く前日以来だろうか。  駄目だわ、少しくらい眠らなくては。  アーリアは、幸せな気持ちで目を閉じた。  一方、その頃。  王立の錬金術研究所には怒号が響いていた。   「おい! まだ出来ないのか!!」 「納入期限は、とっくに過ぎているだろ!!」 「今、必死にやっています!!」  言葉通り、錬金術師達は毎日死にものぐるいで働いていた。  だが、今まで厄介な事は全てアーリアに押しつけていたために、錬金術師達の腕前はどれもたいしたものではなかった。    納期には間に合わない。  品質は悪い。  それどころか、全く効果のない物まであった。  そして、一番問題なのが透明インクの在庫が切れてしまった事だ。  透明インクは重要な書類にも使われるため、ないと政治や経済にも影響が出るのだ。 「早く作れよ!」 「あの、でも、アーリアがいないと……」  アーリアの上司だった女が言うと、相手は首を傾げた。 「若いのが一人辞めただけだろ? あれを作れるのはあんたしかいないんだから、そいつがいようといまいと関係ないじゃないか」 「…………」  本当の事が知られればただではすまない。  ここは王立の研究所なのだから、国を謀ったという事になる。  そうなった場合、どのような刑罰が待っているのか。  アーリアの上司だった女は、青ざめた顔で立ち尽くしていた。 「アーリアちゃん、おはよう。今日は、虫除けを買いに来たんだけど」 「おはようございます。それなら、こちらにありますよ。匂いがあるのと、ないのとどちらがいいですか?」  アーリアの錬金術の店は無事開店し、日々賑わっている。  今では、常連になってくれたお客さんもいるほどだ。  カランと音が鳴り、店のドアが開く。  冒険者のような出で立ちで、物珍しそうにきょろきょろと店の中を見回している。  どうやら、また新しいお客さんが来てくれたらしい。 「いらっしゃいませ! アーリアの錬金術工房へようこそ!!」
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