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帰還
80年代に浮上した拉致問題は、2000年代に入りようやく当事者であるK国が認め、5人の同胞が帰国を果たした。でもそれはごく一部に過ぎず、いまだその行方すら不明の人たちが大勢いる。それらの家族の方々は機会を見ては政府に早期解決を訴えかけ、また政治家たちもその声に真摯に耳を傾けた。
なかでも拉致担当大臣となった政治家は、必ず被害者家族との対談の場を設けていた。私も新しくその職に任ぜられたのを機に、初めて彼らと面会をすることになった。
対談の場として公共施設やホテル等の会議室を用意するのが慣例だった。ところが一部の被害者家族が高齢化を理由にその場に参加できないとの報告があった。名前を聞けば、これまでメディアなどへ積極的に出演し、世間に拉致問題を広く知らしめることに貢献した女性だった。
拉致担当大臣として、彼女に会わないわけにはいかないだろう。気は進まないが、私は自ら彼女の自宅を訪ねることを決めた。
応接室で待つ私の前に彼女が現れた。杖を手にし、足の運びもおぼつかない。ドアから私の前に来る間、ほんの数メートルの距離にずいぶんと時間を要した。
どっこらしょと言ってソファに腰を下ろした彼女の前に名刺をすべらせる。
「はじめまして。拉致担当大臣、川上ヨウコと申します」
「どうもはじめまして。前田サナエです」
場所が場所だけに報道関係者は同席していない。ただ政府関係のカメラマンとライターが私の後ろに控えていた。
「すみませんねぇ。大臣にわざわざお越しいただいて」
「とんでもない。お……、いや、前田さんとは必ずお会いしなければならないと思っていましたから」
一瞬言葉を詰まらせた私を、彼女は心配げに見る。
「なにか、言いたいことがあるのですか?」
「いえ、少し緊張しているので、のどが詰まっただけです」
「そう。私なんかに緊張していたら、あの国と交渉なんかできないんじゃないの?」
「ごもっとも。以後、気をつけます」
そこから和やかに会談は始まった。拉致の現状、K国の反応、交渉の進捗具合等々、当然拉致問題が話題の中心だった。
一時間ほどが過ぎたころ、話は出尽くした。ちょうど私の次の予定も迫っていた。
「では、今日はこのあたりで失礼します」
「ありがとうございました。娘のこと、くれぐれもよろしく頼みます」
「はいわかりました」
そう答えるものの、その期待には添えないだろう。ここだけの話、帰国が叶わない者、行方不明と言われる者のほとんどが、実は消息がつかめているのだ。
ではなぜ帰ってこないのか。それはその大部分が拉致直後から受けた徹底的な教育によって、今や政府高官や軍上層部にまで上り詰め、あるいはスパイとして育てあげられて世界各地で諜報活動に勤しんでいるからだ。
「すみません。最後に握手をしているところを一枚」
カメラマンからの要望で、私と彼女は固く手を握り合った。
撮影が終わり、その手を離した瞬間、彼女がバランスを崩しよろめいた。
思わずその手を手繰り寄せ、両腕で抱きとめた。
彼女の頭部が私の胸に当たる。
彼女の香りが私の鼻腔をくすぐった瞬間、無意識に声が出てしまった。
「ただいま」
「え?」
私を見る彼女を優しく引き離し、慌てて部屋を出た。
いけないいけない。過去を捨て、顔まで変えて今日までやって来たのに、こんなところでぼろを出しては将軍様に顔向けができない。
靴を履き外に出ると、改めてその家を振り返った。外観はあの日家を出たときと変わりない。まあ過ぎた歳月の分だけくたびれてはいるが。
おっと。またこんな郷愁にふけってしまった。さっきも彼女を呼ぶとき、思わずお母さんと言いそうになったし。
スパイとして、私もまだまだ未熟だと言うことだ。
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