村方奇談録「小助の帰参」

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「旦那様、旦那様。ただいま戻りました」  障子の向こうから小癪な声が聞こえてくる。灯火もとっくに消えた暗い部屋の中で、男は横になったまま顔だけを向けた。 「小助か? 要件なら明日にしてくれ」  障子越しに漏れる灯に目を細めて反対側へ寝返りを打つ。ただでさえここ最近は眠りが浅いのに、気が利かない下男が灯を持ってきたせいで、男は眉間にしわを寄せながら枕に頬を押し付けることとなった。 「旦那様。失礼ながら火急の用でございます。どうかお開けください」  まだ靄がかかった頭の中であっても、そう言われては適当にあしらうことは憚られる。ただ男は、やはり目を閉じ横になったまま応える。 「入っていいぞ、小助。くだらんことだったら殴るからな」 「くだらないことではございませんが、今は手がふさがって私からは開けられません。どうかそちらから」 「灯を置けばよかろう」 「いいえ。これは置くようなものではないのです」  からかっているのかと不愉快に思って、男は上体を起こした。障子越しに人影が揺らいでいる。小柄でも大柄でもない影が、直立したままこちらを見ているのがわかる。一向に入ってくる気配を見せない下男に、男は舌打ちを一つ、意地を張るのも面倒だと立ち上がった。寝起きのためだけではない頭痛とめまいが男を襲い、思わずこめかみを押さえ、畳を踏みしめる。そこではたと気が付いた。 「何か頼んでいたか?」  第一声に帰宅を告げた下男が、手を離せないと言っている。入用のものはいくらでも思いついたが、無意識のうちに何か届けるよういっていたか。そうであればさすがにむげに扱うのはかわいそうだ。しかしそこでまたはたと気が付いた。 「いや違う。お前、帰ってきたのか」  ようやくはっきりと目が覚めて、男は人影を凝視した。ここに下男がいるとはただ事ではない。やつは一月前に欠落したたところだった。 「何でここにいるんだ。小助」  よくもまあ再び敷居を跨げたものだ。男は呆れ返って、頭を押さえていた手の力が緩んだ。この下男が急にいなくなったせいで人手が足りず、この頃はもっぱら作人に任せきりだった耕作に病身をおして従事したほどだった。被った迷惑はかなりのもので、その罰は免れようもない。だというのに、のこのこと戻ってきた下男には、もはや苦笑すら口元に浮かんだ。 「それが、よんどころない事情ができまして」  声音を聞く限りかしこまりきった様子もない。厚顔な下男のために、男は障子の格子に指を雑にかけて、一息に開く。 「うわっ」  しかし、男は障子向こうの人影と対面した瞬間、叫び声とともに尻餅をついていた。  よく見知った下男の姿を障子の向こうに期待していたのに、現実に立っていたのは怪異の類であった。男は心底恐れをなして畳の上を後ずさる。怪異はたしかに下男の声を持っている。というより、下男の体であることは間違いなさそうな人型だった。けれども顔は潰れて皮膚や筋肉が捲れ上がり、一部骨も見えている。律儀に死装束を纏っているが、全身泥にまみれ腹のあたりは血の色をしている。手もなければ足も見えないし、隣には橙の鬼火が浮かんでいた。 「いやあ、情けなくも戻ってまいりました」  紛うことなき怪異がぬけぬけと言って頭を掻いている。その態度も声音も普段通りの下男だった。下手に出るのはどこの下男とも似たような姿だろうが、変な卑屈さはない。腹に一物を抱えていそうな小生意気な態度が憎めない奴のままだ。  そうして病のために感覚の鈍った頭でかえって冷静に考えてみると、いよいよ脅かされたという不快感がふつふつと湧き上がり、尻餅をついて下男を見上げる体勢に屈辱を覚えた。 「……まあ、座れ」  手で下男を促しながら、男は今更ながらに布団の上に居住まいをただして、厳めしく腕を組んだ。鬼火が胡坐をかいた下男の肩の位置で浮遊しているため、ちょうど灯油を使ったときのような柔らかな光が互いの顔を照らした。 「お体はまだすぐれませんか」  男は鼻で笑った。怪異に労られるとは何事だろう。話す本人は体調どうこうの体ではないというのに。 「頭痛の種が何を言うか」 「先月の件は申し訳なく。川上の町でよい儲け話があると聞いたもので」  悪びれる様子もないあたり、この下男は無駄に肝が据わっている。男はあきれてため息をついた。 「して、要件は何だ? 火急の用なのだろう?」 「ええ、まこと火急の用でございます」  とぼけた返事に男は顔をしかめる。 「……まさか化けて出ることが目的か? それだけなら俺はお前に構わず寝るぞ」 「はて、化けて出るとは何のことでしょう?」  首をかしげてみせる下男の仕草があまりにも堂に入ったものだったので男は面食らった。第一どこから声を出しているのかもわからぬ風体でありながら、まさか自身の様態を知らぬはずもあるまい。だというのに、目前の怪異の姿をした下男が心底無知そうな様子を見せるものだから、本気で言っているのかからかっているのか瞬時には判然としなかった。 「自分の異変に気がつかぬことはなかろう」 「いやいや、何のことかさっぱり。まるで私が死んでいるかのように」 「現にそうだろう」 「昨日も元気に働いておりましたよ」  顔もないのに猪口才な笑みを浮かべたのが感じられた。こいつ、自分の主人だった者に対してなんという態度だろう……。 「であれば、そうお考えになった故をお尋ねしても?」  なるほど、はたから見れば明らかな怪異が、自分が怪異であることを示してみろとは、なかなか人を食った物言いだ。しかし怪異であることの証明など、沈思する間も必要ない。この際小生意気な下男を言い込めてやろうと、男は下男の問答にのってやることにした。 「お前が怪異であることなど、その頭を見れば明白だろう。頭を失って生きている人間など存在せん」  男は下男の顔を指さした。顔がなければもはや失礼にもならない。 「まさか。私の顔がなくなっていると。感覚もしかとありますし、盲いてもいません。こうして話もできております」 「だがこちらの目には、お前の頭の中身が見えておるぞ。触って確かめてみたらどうだ」  下男は笑い声をあげた。男がその意味に遅まきに気づいたのは、下男が肘から先、手首から先のない両腕で、見せびらかすように顔を触ろうとしたからだ。 「鏡でもあればよいのですが、見回した限り、ご用意はないようで」  目線は辿れないが、下男はたしかに部屋をぐるりと見ていた。 「残念ながら自分の顔は見れません。ですが感覚はいつも通りですから、失礼ながら、旦那様が病で変なものを見ているだけでしょう」 「ああ。本当に失礼なやつだ」  男はむっとして眉間にしわを寄せた。今すぐ鏡を目の前の下男に投げつけてやりたかったが、頭痛が邪魔をして取りにはいけない。 「ではその手は何だ。いつの間になくした?」 「四肢のいずれかを失っている者は村の内外に見かけましょう。なにも不思議な事ではございません」 「だがお前は足もなくしていたぞ。両足のない者が立つことはできまい」  今は裾の下に隠れて見えないが、絵具が水に溶けるように宙へと色を溶かしたような下男の足を、男は脳裏に思い浮かべる。しかし、下男はまたもやとぼけるように「はて」と呟いた。 「たしかに手は道中で失いましたけども、足まで失った覚えはありません」 「また俺の見間違いだというつもりか」  下男はためらいもなく首肯した。その様子がまた腹立たしい。 「旦那様は暗闇の中に居りましたが、突然の灯りには目も眩んだことでしょう。寝起きでぼやけている上に細めていた視界では、まともに物も見えません。現にこの部屋へは、這いずって参ったわけではなかったでしょう」 「ならば話は早い。足を見せてみろ」  男が勝ち誇って鼻を鳴らすと、下男はない腕でわざとらしく胡坐をかいた足をさすって見せる。 「今は痺れて動けません。帰り際にでもお見せしましょう」  開き直って下男は次の問いを催促する。ほとんど認めたようなものじゃないか。男はあきれてものも言えない気分だったが、このまま居座られては安眠は得られないと察している。無為な問答と知りながらも、男は次に、今なお浮かぶ鬼火に目をやった。 「常人が扱うようなものではないな。どこで得たんだ」 「得たと言うのであれば、川辺になりましょうか」  何となく煮え切らない肯定だ。男がため息とともに手であおってその意をただす。 「得たと言わないのであれば、ただ憑りつかれているだけにございます。帰路を辿る際、たまたま私の側に寄ってきたかと思えば、何の害ももたらさず、ただ隣にとどまっているのです」 「つまりお前のものではないと」 「ええ」  また男は指さした。 「ではその死装束は? 血と泥に塗れているのは、お前がまさに死んだときそうだったんじゃないのか」  これにも下男はよどみなく答えた。 「ああ。これは単なる洒落です。横死の際に死装束を着ている者などいるものですか」 「悪趣味極まりないな」 「ではこの格好はこれで最後にしましょう」  なるほど、たしかに二度目はあるまい。何の間違いで動けているのかは知らないが、目の前の下男がすでに死んでいるのは明白だからだ。  それにしても、下男は先ほどからさほど意味のない答えを繰り返している。怪異であること自体は口先で否定はしているが、その実節々から自身の様子をふまえて冗談を言っていることが伝わってくる。男はようやく下男の意図が察せられた気がした。言い負かそうと意固地になるのも、それはそれで癪だ。ここが潮時だろうと、男は降参というように両手を上げた。 「わかったよ。お前が怪異でないと認めてやろう」 結局のところ、二度目の今際の際に会話を楽しもうということだろう。下男の顔には喜色が浮かんでいた。 「で、認めたらどうなる?」 「どうにもなりません。ただ旦那様が私に言い負かされたという記憶が残るだけです」 「嫌味な奴だな」  ふんと鼻を鳴らすと、男は枕元の籠を引き寄せ、見舞に贈られた柿を二つ手に取った。これも最後だから、腰を据えて話をしてやろう。しかしながら男のその仕草には、思いがけず下男の顔色が変わった。 「どうした? 柿は嫌いか」  男はその顔を訝しむ。頭がなくても話せるなら、口がなくても食べられるだろう。かぶりつくだけなら、両手をなくした下男でも柿を支えていられるだろうに。 「いえ。まさか私にいただけるのかと」 「腐る前に食い切らねばならんからな」 「ですが、私にはもったいない。せっかくの見舞の品ですから、ぜひご自身で」 「お前、そんな態度もとれたのだな」  何をそんなに焦っているのかと男は首を傾げたか、ふと下男が部屋に入ってきた姿を思い浮かべた。下男は自身では障子を開けず、また足も薄く宙になじんで見えなかった。男は試しに柿を投げて下男によこした。 「ああっ、お待ちを」  制止する下男の声もむなしく、宙を飛んだ柿は下男の腹をすり抜け、畳を転がって障子の下部にぶつかった。しばしの沈黙が下りる。下男がしまったと眉尻を下げたところで、ようやく男は満足そうに声を上げた笑った。 「言い逃れはできまいな、小助よ」 「……ええ」  下男は悔しそうに口を引き結んでいたが、やがて咳ばらいを一つし、もはや忘れかけていた急用に触れた。 「こうなっては致し方ありません。何も冗談を交わしに来たばかりではないのです」  奉公していた時にすらあまり見せなかった真剣な表情で、下男は静かに言った。 「川を上り、山を越えた先の町で商いを始めていましたが、嵐の夜に足を滑らし、いつの間にやら下っていたようです。明日の朝には、北畑の用水路に流れ着いていることでしょう。旦那様には、その後始末をお頼みしたいのです」  頭を下げ、殊勝な態度をみせる下男に、男は憐れを感じて眉間にしわを寄せた。あまりに唐突な出奔には、怒りを通り越して乾いた笑いが出たものだったが、それでもこの下男にとっては一世一代の覚悟があったはずだ。だというのに、ものの一月で計画は頓挫し、こうして皮肉な帰参を果たした。小生意気なやつだとはいえ、ともに過ごした下男がこのような末路をたどるのは、心を痛めずにはいられなかった。 「よかろう。葬儀はそこそこ大きくしてやる」  男が辛うじてそれだけ言うと、下男は一層深く頭を下げて礼を述べた。その態度を生前にも見せてくれればと、言葉が憐憫の間を縫って喉元までせりあがった。 「死体の懐の銀は旦那様がお使いください。せっかく稼ぎましたが、今さら持っていても詮無いことですから」 「ああ」  突如として鬼火がぱっと赤く燃え上がると、男はその眩しさに目を閉じた。やがてまぶた越しに光を感じなくなって目を開けると、すでに普段通りの暗闇が辺りを覆い、下男の姿はない。男は部屋の端に転がる柿を見て鼻を鳴らすと、再び眠りについた。  翌朝家内に揺り起こされて目を覚ました男は、村の用水路で身元不明の水死体を発見したと報告を受けてすぐに向かった。川から流れ込んだのだろうという話だった。はたして死体の様相は昨夜の記憶と寸分たがわず、男はすぐに下男であると断定した。ただ一つ、服だけは町人然とした仕立てのいいものだった。蓋し洒落だというのは、あながち単なる出まかせでもなかったのだろう。約束通り、葬式は下男に対して通例行われるものよりは大きく執り行った。下男がくれるといった銀はたしかに懐に入っていたが、結局男は手を付けずに棺の中へ入れてやった。  一連の始末が済んでから、男は病が癒えていることにはたと気が付いた。
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