習慣

2/3
前へ
/3ページ
次へ
*** 父の顔は覚えていない。 父は俺が物心つく前に亡くなった。 そのときには既に母のお腹の中に弟がいたから、俺と弟、二人の男の子を育てるには厳しい母親にならざるを得なかったのかもしれない。 特に、挨拶には厳しかった。 何かをしてもらったら「ありがとう」、悪いことをしたら「ごめんなさい」、人とすれ違ったら「こんにちは」 言わないと首根っこを掴まれて、言うまで解放されなかった。 今思うと、母がいないところでも、誰かに助けてもらえるよう処世術を身につけさせたかったのだろう。 そんな母がボケ始めたのは3年前のことだ。 母が体を悪くして、俺が一緒に住むことになってから、5年も経ったころ。 はじめはただの物忘れだと思っていた。年寄りが若者言葉を理解できないような、そんなありきたりの。 病院に行こうと言い出したのは、弟だった。 「母さんももう結構な歳だし、認知症だっておかしくないだろう?」 弟は高校を卒業してから転々と旅をして、辿り着いた先々でその日暮らしを続けていた。 普段から連絡も返さないくせに、金に困ったらひょいと顔を出して、小遣いをせびる。 そんな親不孝者が、なにをわかったような口を。 俺の思いとは裏腹に、母は中等度の認知症と診断された。 医者には介護施設を勧められたが、母が頑なに首を縦に振らないものだから、自宅介護で様子を見ることになった。 朝晩は俺が、俺が働いて家にいない昼は弟が、母の介護にあたった。 重い診断の割に母の容体は安定していて、医者にも回復の見込みがあると言われた。 安心したのも束の間、病状が悪化したのは弟がこんなことを言い出してからだった。 「俺、趣味でやってた写真がさ、有名な賞の審査員?の人に認められたみたいでさ、一緒に働かないかって誘われたんだよね。 高校卒業してからフラフラして迷惑かけたし、母さんのためにも安定した職に就きたいなって思うんだけど、どうかな?」 弟が俺に見せたメッセージのやりとりには「君には才能がある」「趣味のままにするにはもったいない」など、如何にも胡散臭い言葉が並んでいた。 ただ、それよりも俺が気になったのは「フットワークが軽く、全国各地での撮影に柔軟に対応できる方」という募集条件の方だった。 「そんなのは聞こえの良いことだけ言って、都合よく使われるだけだ。なにより、母さんのためを思うなら、今は一緒にいるべきだろ。」 俺は反対し、一晩よく考えるように諭したが、弟が俺のいうことを聞いた試しはなかった。 結局、弟は喧嘩別れの形でその晩に家を出た。 無責任な弟がいなくなって空いてしまった昼の時間は、介護をお願いするヘルパーさんを見つけるまでの間、母一人になってしまった。 いや、母一人にしてしまった。油断していたのだと思う。 なかなか人が見つからず、今の仕事を辞めるしかないかと考えだしたころ、帰り道でお隣さんに話しかけられた。 「ねぇ、ついさっき、あなたのお家から大きな物音が聞こえたのだけど、大丈夫?」 「えっ」 その時のことは今でも忘れない 乾く喉、荒くなる息、体がこわばり、心臓の鼓動がなる感覚 急いで玄関の鍵を開けた俺は、その物音の正体を考えるまでもなく、すぐに理解した。 救急車を呼び、目を閉じた母とともに病院へ向かう。不幸中の幸いか、頭をぶつけたわけではなかったようで、命に別状はなかった。 弟がいなくなったことが母にとって相当なショックだったのか、我が子の前ではいつもの厳格な母でいようと努めていたのか、なんにせよ母はもう限界を超えてしまっていたようだった。 そこからは一度手放してしまったボールが、坂の上を転がり落ちるように、俺にはどうしようもなく行く末を見守ることしかできなかった。 ヘルパーさんが見つかり介護の質が上がっても、母は衰弱するばかりで瞬く間に入院生活が余儀なくされた。 それから、俺が礼服の黒のスーツを身に纏うまで、そう時間は空かなかった。 ***
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加