僕が帰る場所

2/3
前へ
/4ページ
次へ
 千里は退勤15分後には新刊を手にし、25分後にはホットサンド2種類と夜食、朝食の定番、卵サンドとレタスベーコン、クリームチーズフルーツ、ハムカツの包みを持って、30分後には玄関前に立っていた。鍵を開けて入り、後ろ手に鍵を閉める。  「ただいま」  返る声は無くとも千里は必ず「ただいま」を言う。家にただいまだ。千里はひとり暮らしをして15年は経っているが家に帰るたびに感慨(かんがい)に浸ってしまう。すべてを吟味(ぎんみ)し、自分が納得したもので構成されている小さな一軒家。  ありとあらゆる部屋に本棚がある。言ってしまえば好きなものしかない最高の自分の城だ。読書するのに快適なリライニングチェアはクッションが良く、淡いグリーンの布の触り心地も最高だ。軽食や飲み物を置く小さなテーブルも家具屋を(めぐ)って一目惚(ひとめぼ)れしたもの。体圧分散のベッドも横になれば2秒で眠れる。家のこだわりを語り始めたらきりがない。  千里は鼻歌交じりに台所へ行き、お湯を沸かしダージリン紅茶を淹れる。茶葉を蒸らす時間に読書スペースを眺めるのも好きだ。暖色系のライトに浮かび上がるリライニングチェア。今からあそこで本を(めく)るのだと思えば心が浮き立つ。  「本当に、くるみと母さんに感謝だな」  千里は何度目かわからない呟きを()らす。くるみは母に付いて行った2つ下の妹だ。  千里の家は離婚家庭で千里は父と暮らしていた。父は古い男で千里はずいぶんと抑圧された。本当は母に付いて行きたかったが自分が残らないと2人が危ないと中学生だった千里は思ったのだ。  男は結婚して初めて一人前。趣味よりも仕事。男はスポーツ。いったい何度怒鳴られ殴られたか。幼い頃からいわば父の支配下にいた千里は自分に向かないことを強制され続けていたといえる。くるみはそんな兄を心配していた。もちろん母も。転機が訪れたのは社会人になって2年が経った頃。恋人も仲間も上手く作れないことに父がキレて千里を殴りつけた。その時の打ちどころが悪く千里は意識を失い救急車で運ばれ、父は警察に逮捕された。  「お父さんは、古い。お兄ちゃんだってわかっているでしょ」  「そうは言ってもな……」  「お兄ちゃんしっかりしてよ! お父さんは逮捕された。刑務所にも入る。自由になっていいの」  病院のベッドの上で千里は困惑していた。自由って、なんだ? 誰よりも早く出勤して、最後まで残業して、ジムに通って、飲みに誘われたら断らない。それが日常だった。それ以外の生き方なんて知らない。  「僕は、正しい生き方をしているはずだ。これからも。だから、問題ない」  どこかうつろな千里の言葉にくるみが顔を(ゆが)ませた。病院だというのに大声で叫んだ。  「嘘つき‼ 嘘つき、嘘つき、嘘つき‼ いっつも気持ち悪い顔で笑っているくせに! 本読むの止めれなかったくせに‼」  千里はぐっと胸が詰まったような息苦しさに(くちびる)を噛み締めた。痛いところを突く。そう、本は隠れて読むものだった。千里の胸に今まで何度も思って抑え込んだ感情が膨れ上がってくる。振り上げ降ろした(こぶし)が布団に当たってボスッと鈍い音を立てた。  「うるさいな! そうだよ! 人付き合いなんてしたくない! 酒を飲むのも、大人数で食べるのも、恋人探せといわれるのも苦痛で仕方がない! 男は本を読んだらいけないのか? 定時退勤は罪なのか? 料理も、掃除も女の仕事? だったら家が荒れてもいいのか? それが嫌ならサッサと結婚して妻にやらせろ? そんな結婚御免だ‼」  (たかぶ)った感情で目が潤む。初めて見る千里の激昂(げっこう)にくるみはおろおろと手を伸ばした。触れようとして迷って中途半端に手を伸ばしたままぼろぼろと泣き出す。  「好きに生きればいいじゃない……、好きなことできる程度のお金稼いで、本買ったり、読んだり、独り身だっていいじゃない……私だって、そうしてるもの。お母さん、今の世は決して平和じゃないし、いつ何が起きてもおかしくないし、窮屈だから今の内に好きなことしなさいって。どうせ人生終了するならぎりぎりまで好きなことやったぞって生きようって」  母は良いことを言うな、と千里は素直に思えた。そして、自分を心配して泣く妹が(いと)おしいと思う。だから、千里はぎこちなく頷いた。  「すぐには無理かもしれないけれど、考えてみる」
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加