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息を吸う。
吐く。
また吸う。
呼吸。
呼吸音。
私は、自分の肺から逃げ出していく空気の音を聞いている。
それは、かつて私だったものの一部が消えて、入れ替わる音だ。
その音を聞くたびに、今ある私の存在が少しずつ削れているような気がした。
少しずつ確実に、今の私が無くなって、別の私になっていく。
その思考に囚われた私は、気が狂いそうになった。
最初は、些細なことだった。
私の皮膚は、絶え間なく剥がれ落ちている。
シャワーを浴びるたび、タオルで体を拭くたび、無数の死んだ細胞が失われていく。
その一つ一つが、かつて私の一部だった。
そのことに気が付いたのだ。
朝、私は目を覚ます。
そして、昨日の自分が少しずつ剥がれ落ちていく感覚に襲われる。
私の皮膚は、日に日に見知らぬものになっていくのは間違いない。
それはつまり、私が少しずつ、失われているのだ。
これまであった私の欠片は、もう二度と戻ってはこない。
その事実を直視するたび、私は強い不安に駆られるのだ。
私は、床に落ちている自分の皮膚の破片を集めて、それを保存することにした。
部屋に常備している、保存性の高い二重のビニール袋に入れる。
ラベルには正確な日付と時刻を記入する。
「2024年10月16日 午前6時42分 皮膚 7片」
その行為は、私に一瞬の安心をもたらす。
保存した皮膚の破片を見つめながら、私の心は一時的に落ち着きを取り戻していた。
落ち着いた私は、鏡の前に立って、自分の変化を見る。
しかし、集めた皮膚の破片を見て、私は安心を取り戻す。
私の変化を保存できているのだ。
私の心にはモヤモヤとしたものがあった。
しかし、その感情をどうすることもできない。
それを誤魔化すかのように、私は髪を弄った。
私から、髪の毛が抜け落ちた。
かつて、自分だったもの。
私は、その髪の毛の存在に気が付いた。
それらを慎重に拾い上げ、同じように保存することにした。
皮膚を保存しているものと同じ、ビニール袋に入れる。
「2024年10月16日 午前7時8分 頭髪脱落 23本」
この数字が増えるたびに、かつての私が少しずつなくなっている気がする。
私の頭皮に残っている髪の本数はいくつだろう。
数えたい衝動に駆られるが、それをすれば更に髪が抜けてしまうかもしれない。
それは私から失われるものが増えてしまう。
その恐怖が、私の中で矛盾した欲求を留めさせてしまう。
私は混乱をする感情を抑えながら、あることを考える。
かつての私を保存をしていくことで、かつての自分の一部が失われていくことを確認することができる。
だが、それは確認をするだけで、根本的な解決をしていない。
足りない。
その焦燥感が私を追い詰めているのだ、と。
私は自分の部屋で、これまでに集めた髪の毛や爪、皮膚の破片が入ったビニール袋を見つめる。
これで十分なのだろうか。
自分の抑えきれない感情が、じんわりとこみ上げてきた。
ふと、時計を見ると、もう出勤の時間に近づいていた。
…だめだ。
ずっと、このことだけを考えている暇はない。
私は深呼吸をする。
そして、ノートに記された文章を確認する。
そこには、これまでに行った『作業』の内容が細かく書き記されていた。
最後の確認を行った私は、意を決して自宅を出た。
続いて、駅に着いた私は、通勤のための電車に乗る。
私の悩みとは一切関係なく、電車は進んでいく。
気を紛らわせるために、私は乗車している乗客たちを観察する。
会社員、学生。
彼らもまた、刻一刻と変化し、失われていっているのだろうか。
やはり、その考えが、私の頭をもたげる。
ようやく、駅に着いた電車から出た私は、逃げるかのように会社へ向かう。
そして、会社に着いた。
同僚たちが次々とオフィスへと入っていた。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
社交辞令を行う。
…ああ、そうだ。
私は不意に気が付いた。
同僚との会話。
私の言葉が空気中へと消えていくことに。
かつての私だったものを留めておかなければならない。
…いや、それだけではない。
同僚だったもの。
いや、通りすがりの人たち。
それらがいた根拠は、刻一刻と失われている。
それらをどうすればいいのだろうか?
私の課題は増えていた。
日常を過ごす中で、それらの課題や変化と私は戦う。
そして、ある日。
それを解決できることを思いついた。
スマートフォンだ。
録画すればいいのだ。
それに気が付いた私は、持っていたスマートフォンで記録し始めた。
スマートフォンのカメラを常に起動させて、私、周囲の人たちのすべてを記録する。
その行為が、私に一時的な安心を与え始めた。
しかし、日々が経つにつれ、この方法では足りないと感じるようになった。
1週間が過ぎ、2週間が過ぎ、1ヶ月が経つ頃には、動画による記録では、失われていく人たちの変化を記録するだけで不十分だと感じるようになっていた。
私は、もっと根本的な方法を求めるようになっていった。
そして、ある時。
私はついに根本的に問題を解決する方法を思いついた。
特殊な硬化性の樹脂。
それは透明で、揮発性の溶液を使用する。
その溶液は、大気に触れると急速に硬化していき、最終的に個体として完全に固まってしまう。
私は小さな容器に樹脂を注ぎ、その中に自分の爪を沈めた。
すると、樹脂は徐々に固まり始め、私の爪をその中に閉じ込めていく。
しばらくすると液体の溶液は、透明なプラスチック樹脂として完全に固まった。
透明な塊の中に、私の爪が完璧な姿で封じ込められている。
まるで、時間が止まったかのようだ。
そして、何度かの検証を行い、その方法が実行可能なことを確認した。
検証のために、かつて私の一部だった爪や皮膚を使用して何度も確認する。
完璧だった。
これで、かつての私を完全に留めておくことができる。
検証を終えた私は、行動を起こすことにした。
そして、その作業を最愛の人から始めることにした。
彼女の存在を完全な存在とするためだ。
2024年12月24日、私は彼女を自宅に招いた。
高級な料理をデリバリーし、ワインを開けた。
彼女は笑顔だった。
その笑顔が、私に囁いているようだった。
私の行動は間違っていない、と。
そして、私は行動を起こした。
最後の叫び声が響き渡った。
その予想以上に大きな声は、私を驚かせる。
しかし、それは彼女のために必要なことだった。
私は、作業を進めなければならない。
それは、事前に準備していた高画質4Kカメラによって、最期の表情や音声を完全に保存しながら進めていったのだ。
恐怖、驚き、そして…諦め。
彼女の全てが保存されていた。
1秒間に120フレームという条件。
もはや、一瞬たりとも失われるものなどない。
特殊な溶液で、彼女の体を処理する。
その後、大きな容器に溶液を並々と注ぎ込み、そこへ彼女を沈めていく。
特殊な溶液は彼女の体のすべてを包み込み、急速に固まっていく。
液体の溶液は、ほどなくして透明なプラスチック樹脂として完全に固まった。
透明な塊の中に、彼女が存在している。
彼女の表情、肌の質感、髪の一本一本まで、完璧に保存されている。
これで、少なくとも彼女はもう二度と変化しない。
完全に失われることはない。
その確信が、私に一瞬の安堵をもたらした。
だが、それでも足りなかった。
私は行動を拡大した。
もっと多くの人々を、完全に保存しなければならない。
彼らの存在が変化し、失われていくことを、何としても止めなければならない。
最初は知り合いから始めた。
友人、同僚、近所の人々。
そして徐々に、見知らぬ人々にまで手を広げていった。
一人、また一人と、私は人々を「完全」の中に閉じ込めていった。
春が訪れる頃には、私の地下室には、彼女を含めて何人かの『完全になった者たち』がいた。
彼らは皆、完璧な姿となった。
透明な樹脂の中で、もう変化をすることはない。
しかし、ある日、鏡を見て、恐ろしくなった。
昨日の自分とは少し違う顔が映っている。
髪の毛一本、皮膚の細胞一つ一つが、刻々と変化している。
瞬き一つ、呼吸一つで、私は変わっていく。
目の下のしわを数える。
昨日は37本。今日は38本。
受け入れられない。
その変化が、私の存在を脅かしている。
自分自身も、少しずつ失われていっているのではないか。
その恐怖に、私は押しつぶされそうになる。
だから、私は準備をしていた。
自分自身を完全に保存するための、完璧な計画。
その計画こそが、この変化する現実から脱出できる唯一の手段なのだ。
そして、準備が完了した。
私の目の前にある、大きな容器。
ゆうに私の身長を超えるような、それ。
そこには、特殊な溶液が満ち満ちている。
その溶液は、急速に硬化しプラスチックの樹脂となる。
あとは、私がその中に入るだけだった。
中に入れば、私の身体は完全になる。
その溶液は、私の体のすべてを包み込み、化学反応によって急速に固まっていくだろう。
全ては、この瞬間のために。
私は、容器の中に足を踏み入れた。
ズブズブという音とともに、私の身体が溶液に沈んでいく。
まるで底なし沼に囚われたかのようだった。
冷たい液体が、ゆっくりと私の体を包み込んでいく。
ヒンヤリとした感触が全身を覆い、私は少しずつ沈んでいく。
足、脚部、腹部、胸部、肩と。
私の身体が溶液の沼に沈んでいく。
もうすぐだ。
もうすぐ、全てが完全になる。
そうすれば、もう何も失われることはない。
全てが完全に留まる。
私は不安定な世界が嫌いだ。
そして、この安定した世界へ、私のすべてを集めることにした。
それこそが、私に安らぎをもたらすのだと確信したのだ。
ついに溶液が首元まで達する。
そのまま、順調に溶液が私の顔を通過する。
目を開けていたため、私の目は開きっぱなしとなってしまう。
そして、私の身体は完全に容器の中に納まった。
そこで最後の仕上げがあった。
私は最後に、大きく息を吸い込んだ。
既に樹脂と化しつつある液体が、肺の隅々まで行き渡る。
苦しい。
反射的に身体が取り込んだ溶液を吐き出そうする。
嗚咽を上げようとするが、固まりつつある樹脂によって、それすらもできない。
私の精神は苦しみにもだえる。
しかし、樹脂によって固定された体は、微動だにしない。
身じろぎすら出来ない中、私の意識は消えていく。
そして、私は最後に一瞬だけ、感じた。
もう変化することが無い、全てが集まった完全な世界を。
その世界が始まる瞬間を。
その瞬間、私のすべてが集まり完全になった。
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