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【バスケットボール】
「おや、川上くん、こんにちは。」
窓を閉めているところに、後ろから声をかけられた。
見ると、担当医の野上先生だった。
いつから見られていたんだろう?
ドキドキして返事もできない僕のことなどお構いなしに、先生は僕の隣まで来て言葉を継いだ。
「今日は確かリハビリだったかな?
こんなところでどうしたんだい?」
言葉を返せない僕をチラリと見て、メタボ気味のお腹を自嘲気味になでながらのんびりした口調で続ける。
「まあ、人のことをとやかく言う前に、僕もちょっと運動しないといけないんだけどねぇ・・・・・・。」
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事故で右膝を負傷し、専門医のいるこの病院に入院した。
噂によると、腕は確かだがちょっと変わった人だという野上先生は、手術の前にレントゲン画像を見ながら言った。
「手術が成功すれば、間違いなく元の通り歩けるようになる。
それは保証するよ。
ただ、それにはそれなりに時間がかかるのも間違いないけどね。」
それから、表情を変えずに僕の方に向き直って続けた。
「バスケもできるようにはなると思うけど、元のようにできるかどうかはちょっと確証が持てないかな。
元通りに動けるようになるとしても、それこそ長い時間がかかる。
高校生の間は満足のいくバスケはできないかもしれない。
ただ、もしまたバスケをやりたい気持ちがあるのなら、うちには優秀な作業療法士がいるから、彼らと協力しながら全力でサポートさせてもらうよ。」
野上先生が執刀した手術は、無事に成功を収めた。
術後の回復を待ってから、作業療法士の西村さんと一緒にリハビリを開始した僕は、すぐに絶望感を味わうことになった。
歩くどころか、両足で立つことさえ満足にできなかったのだ。
右足が、何か別の意思を持った生き物のように全く言うことを聞かない。
まるで自分の足じゃないみたいだ。
ある日のリハビリ中、西村さんに聞いた事がある。
「どれくらいかかりますかね?」
西村さんは、穏やかな表情で答えた。
「それは、普通に歩けるようになるまで?
それとも、元のようにバスケットができるようになるまで?」
「どっちもです。」
僕の返事に、西村さんはしばらく考えてから答えた。
「野上先生も言ってたかもしれないけど、ただ歩けるようになるだけなら、そこまではかからないかもしれない。
ただ、バスケットがしたいとなると、どれくらいかかるのかは僕にはちょっと見当がつかない。
一年では無理かもしれない。
三年でもダメかもしれない。
そこまでいくには、足の状態もさることながら、君の絶えざる熱意が必要だからね。」
絶えざる熱意なんていう言葉を聞いたのは、その時が初めてだった。
少し白髪の混じった髪でいつも温和そうに微笑む西村さんからは想像できないような熱量のこもった言葉だった。
僕は西村さんの言葉に驚きながらも、その絶えざる熱意は僕にはあるだろうか?と考えた。
ただバスケができるだけじゃダメだ。
今までよりももっと高みを目指したい。
そういう想いは持っているつもりだった。
しかし、考えていた以上に過酷な現実を前に、僕はその想いを、熱意を、持ち続けることができるだろうか?
どこまでだってやってやるという断固たる決意を持てないまま、僕はリハビリを続けた。
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術後しばらくして、松葉杖をついた状態で退院した。
その後もリハビリに通っていたが、僕はなかなかうまく歩けるようにはならなかった。
生まれたての子鹿のように足を震わせながら、一歩一歩ゆっくりと歩くのがやっとなのだ。
僕は、思い通りにならない現実に絶望して、ついにリハビリ室を逃げ出した。
まだ慣れない松葉杖をついた僕の歩みは決して早くはなかったが、西村さんは追っては来なかった。
誰もいない昼下がりの談話室で、僕はポケットの中に手を突っ込み、小さなバスケットボールの模型に指先で触れた。
小学校五年生の時に近所の雑貨屋で見つけ、わずかばかりのお小遣いの中からお金を出して買ったそれは、ケガをするまではずっと僕のバスケ用のカバンの中に入れてあった。
僕のバスケはこのボールの模型と共にあったと言っても過言ではない。
リハビリでパワーをもらえるように、カバンから出して持ってきていたそれを、僕は強く握りしめた。
全然歩けやしないじゃないか。
こんなんじゃ、元通りになんてなれやしない。
そうに決まってる。
僕は握りしめていたボールの模型から手を離し、窓際までゆっくりと移動した。
松葉杖でうまくバランスをとりながら、左手で談話室の窓を開ける。
窓の外に目を向けた僕は、空の青と木々の緑のコントラストのあまりの眩しさに、思わず目を瞑った。
眩しさに慣らすようにゆっくりと目を開くと、僕は再び左手をポケットに突っ込み、ボールの模型を取り出した。
僕はきっと元通りにはバスケができない。
もう諦めよう。
こんなもの持っていても無駄なんだ。
しばらく手のひらで転がしてから、僕はそれを窓の外に投げ捨てた。
利き手と逆の手で投げたそれは、思ったよりもずっと手前の、ちょうど僕からは見えない場所に落下し、「カツン」とかすかな音を立てた。
僕はそのまま、少し泣いた。
ひとしきりその場で涙を流した後、僕はそっと窓を閉めた。
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「先生、いつからいたんですか?」
「僕かい?
ちょうど今来たところだよ。
僕はここからの眺めが好きなんだ。」
野上先生は僕の隣に立ち、窓の外に目を向けた。
僕が投げたものを確認しに来たのかと思ったが、全然見当違いのところを眺めているので、そういうわけではないようだ。
静寂の中、自動販売機のブーンという稼働音だけが小さく響いていた。
「先生、リハビリ、辛いです。」
ふと、弱音が口から転がり出た。
気の良さそうなこの先生なら、聞いてくれるような気がした。
「うん、まあ、そりゃそうだろうね。
できてた事ができなくなる。
それだけでも辛いのに、そのできない事をまたできるようになるよう努力する。
言ってみれば、ゼロからのスタートでもなく、マイナスからのスタートだからね。
そんな事、長い人生でそう何回もあるもんじゃない。
あるいは一度も経験せずに生涯を終える人もいるかもしれない。
それくらい珍しくて、でもそれくらい貴重な経験でもある。」
貴重な経験?
こんなに苦しいならそんな経験いらない。
そう思った。
先生は続けた。
「この経験はきっと君を一つ成長させるだろう。
苦しみの中、努力して歩けるようになった君は、何だってやればできると自信をつけるかもしれない。
苦しみの中にある人の気持ちが分かるようになるかもしれない。
その自信が、人の気持ちに気づける思いやりが、あるいはそこで得たもっと別の何かが、いつか君を助ける日が来るかもしれない。
そう考えてみたらどうだろう?」
こんなにも苦しい中から得るものがあるとしたら、それは一体何なのだろう?
それは、そこまでして得るべきものなのだろうか?
頭の中がぐちゃぐちゃになってうまく考えられない。
「僕にこの苦しみは乗り越えられますか?
乗り越えた先でまたバスケが楽しめますか?」
先生は、あごに生えた無精髭を撫でながらしばらく考えるようなそぶりを見せ、それから言った。
「守秘義務ってのがあるんだけど、僕がこれからいうことはただの独り言だ。
君は何も聞いていないし、僕は君に何も話していない。
あくまでただの独り言だ。
いいかい?」
急に妙なことを言い始めた先生に困惑している僕をよそに、そんな前置きをしてから、先生は話し始めた。
「僕の患者で、サッカーをしていて誰かさんとと同じように膝を負傷して手術した子がいたんだ。
当時、誰かさんと同じ高校生だったな。
彼は、誰かさんと同じように葛藤しながら、それでも元のようにサッカーができる事を信じて諦めずにリハビリを続けた。
長い時間がかかったけど、彼はサッカーができるまでに回復した。
それどころか、そこからさらに努力を重ねて、大学卒業の頃にはプロから声がかかるくらいまでになってね。
そのままそのチームに入団して、今でも活躍している。
今でもたまにスポーツニュースで名前が出ていたりするんだよ。」
そう言って、先生は僕も知っているサッカー選手の名前をポツリと言った。
驚く僕に顔を向け、先生はまた口を開いた。
「あ、君がこの苦しみを乗り越えられるかどうかの話だったね。
君自信がどう思っているかは分からないけど、僕は、君なら大丈夫だと思ってるよ。
昔から言うだろう。
『神様は乗り越えられる試練しか与えない』
ってさ。
『神様は、その人の成長に必要な試練しか与えない』
と言うのもどこかで聞いた事があるな。
いずれにしても、大切なのは君に乗り越えようとする意志があるかどうか。
乗り越えた先の未来を想像してみるといい。
君が生き生きと全力でバスケをしている未来だ。
その未来に辿り着くためには、小さな歩みでも、とてつもなく遅い歩みでも、一歩一歩進んでいくしかない。
逆に、どんなに時間がかかっても、諦めさえしなければ君はきっとその未来に辿り着く事ができるだろう。」
先生は、そこまで言ってから一息ついて、最後にこう締めくくった。
「まあ、君の悩みや苦しみはわからなくはないけど、はたから見たら答えは至ってシンプルだ。
やるか、やめるか、それしかない。
やめたくなったらやめちゃえばいいんだし、とりあえずやれるところまでやってみたらいいんじゃないかな。」
そこまで言うと、先生は何もなかったかのように踵を返し、「よし、休憩終わり。」と呟き、談話室の出口に向かって歩き出した。
僕はしばらく呆然とその後ろ姿を眺めていたが、ふと我に帰り、「ありがとうございました。」と慌てて頭を下げた。
先生は、手を挙げて顔の脇でひらひらしながら、そのまま廊下に出てどこかに行ってしまった。
僕の未来は僕にしか創れない。
再びバスケができる未来を創れるのは僕しかいないのだ。
未来で笑うために、今は苦しくてもリハビリを続けていこう。
そう決意して、僕は松葉杖をついてゆっくりと歩き出した。
リハビリ室に戻ると、西村さんは、そこでずっと待っていてくれた。
「西村さん、すいませんでした。」
僕は松葉杖をついたまま、出来るだけ深く頭を下げた。
顔を上げた僕に、西村さんは優しい笑顔を向け、「おかえり。」と言ってくれた。
その言葉が、優しさが、何だかたまらなくこそばゆくて、ぼくは思わず俯いた。
そして、俯いたまま、小さく「ただいま。」と呟いた。
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あの日投げたボールの模型は、松葉杖なしで歩けるようになってから探しに行ってみたけれど、結局見つけることはできなかった。
僕は、前に進んでいくために過去の弱い自分を捨てたんだと自分自身に言い聞かせ、その後も西村さんと一緒にリハビリを続けた。
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昨年大ヒットしたバスケ映画の主題歌に混じって、大観衆のざわめきがロッカールームまで聞こえてくる。
日本中の期待を背負い、これから僕たちはコートに立つ。
相手は世界に名を轟かす強豪国。
サポーターを巻いた右膝をさすってから、僕は立ち上がった。
ずいぶん時間がかかったが、ようやくここまで来た。
野上先生や西村さんの言うとおり、ちゃんとたどり着くことができた。
そのことが最高に嬉しかった。
でも、まだだ。
まだ先がある。
目指すのは、もっともっと高い場所だ。
ロッカールームを出てアリーナに向かう。
眩い光と大歓声が僕たちを出迎える。
さあ、最高の未来を創りに行こう。
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