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きれいなままでしにたいから。
何故こんな時、最後に聞いた兄の言葉を思い出すのだろう。
疲れ果て、空っぽの頭の中に浮かんだ兄の顔は辛そうに歪んだ、それでも綺麗な顔だった。
色褪せた畳が敷かれた八畳の和室。廊下に面した襖からは微かに陽光が入り、いつの間にか夜が明けた事を知る。
別に夜通し蝋燭の火を見ていた訳ではない。倒れて火事にならないよう、蝋燭を模した電灯が故人の枕元には飾られていた。
明日香は立ち上がり、頭上の紐を引っ張り部屋の電気を消した。
座る前に部屋の隅を見れば、歳の離れた弟が小さな寝息を立てていた。泣き晴らし疲れたのだろう、昨日は夕飯も食べていないから起きたら直ぐに食べるものを用意しなければ。
それは明日香の日常の延長だった。
朝になれば叔母夫婦が来てくれる。今日だって本当は泊まると言ってくれたのを、二人で平気だと言い帰ってもらったのは明日香の方だ。
そのくせ心細くなり、今はいない兄の面影を思い出すなんてどうかしている。
生きている内に会いたかっただろうか。他界した父と兄は折り合いが悪かった。
体が弱かった母が病死したのは明日香が中学生の頃。母が亡くなってからというもの、父と兄の口喧嘩が増えた。諌めるのは明日香で、幼稚園児の弟が泣くと二人は無言になりいつも兄はふらりと家を出ていってしまった。
ある時、夜中に帰ってきた兄は化粧をしていた。全然似合っていない化粧は多分自分でしたのであろう、濃い配色のアイシャドウとチーク、血塗られたような唇。最初はハロウィンの仮装かと思った程だ。
驚いた顔の明日香に兄はバツが悪そうに、似合ってないのは承知していると言って早々に部屋へ引き上げてしまった。
それからというもの、時折化粧のまま帰ってきた。それは夜中にたまたまトイレに起きて遭遇したり、足音で目覚め兄を出迎えたりとまちまちではあるが、兄の化粧に興味があったからだ。
上手くなったじゃん。
中学生の明日香は兄の化粧というより、化粧をして変わる顔に興味があった。
クラスの中には休日化粧をして出掛けると言っていた女子もいたが、明日香は自分にはまだ早いと思っていた。小遣いが少なかったのも原因のひとつだ。
兄はバイトをしていたから、そこから化粧道具を買っていたらしい。たまに部屋へ呼んでくれ、明日香にも化粧を教えてくれた。
ほんの少しのチークから自分に合ったアイシャドウまで教えてくれた色味は今も明日香の顔を彩る。
何故、化粧をするのか?女の子になりたいの?
ある時聞いてみた。
兄はちょっと考えて少し違うと言った。
性別を変えたいのではない、ただ、綺麗になりたいだけだと。
自分もそうであるが、兄は平凡な顔付きだ。
だが、化粧の腕が上がったあの頃は美少女と言っても差し支えない顔貌が出来上がっていた。まるで別人。
兄はそれが楽しいと言った。
化粧に合わせて服装も変えていた。メンズではなくレディースものの服を着る、所謂女装。だけど、とても似合っていた。
それから、将来は化粧をする仕事や、いつかは自分のブランドを立ち上げてみたい。そんな話もしてくれた。
キラキラとした目をした兄の話を聞くのは好きだった。
初めて兄の化粧を見てから一年ほどが経った。いつかはバレるのではないかと思っていたが、父に兄が化粧をしているのがバレてしまった。
ただでさえ折り合いが悪かったと言うのに、化粧姿の兄を見つけた父は怒るよりも情けないと言った。男のくせになんて顔だと。
それからと言うもの兄の高校卒業までの数カ月は家の中の空気が最悪だった。
二人は互いを空気のように扱う時もあれば、啀み合う事もありそんな時は明日香と小学生に上がった弟が止めに入った。
そして高校卒業式数日前、明日香にだけ弟の事を頼むと言って夜中に出ていった。
卒業まで待てないのかと聞いたか待てないと言う。詳しく聞こうとしなかったのは、兄が話してくれなそうな雰囲気だったからだ。
もう会えない?
会えなくはない、たぶん。
ちゃんと生活できる?
……たぶんな。
……。
後悔はしない、ずっと偽って誤魔化して生きるより、きれいなままでしにたいから。
最後に見た兄は今までで一番綺麗だった。
後悔してないのだろうか。
聞く事は出来ない。何故そんな事を思い出すのだろう。
「明日香」
幻聴まで聞こえる。
「明日香」
幻聴?
「明日香」
今度は肩を叩かれた。ふと、後を見れば思い出の中よりも大人びた顔をした綺麗な女性の顔をした兄がいた。
「にい……?」
「腹、減ってるだろ?その前に少し寝るか?」
弟は兄の隣で菓子パンを食べている。二人を見ながら、うんうんと頷いている。何でそんな平然としていられるのか。
「なん……」
「……色々大変だったな、後はオレが変わるからお前は」
「なんで、今頃?!」
父は急に亡くなった。
朝明日香の作った弁当を持ち仕事に行き、昼過ぎ大学の講義が休みで家にいた明日香に連絡が来た。父が倒れたと。それが一昨日のこと。
虚血性心疾患、病院に明日香が着いた時すでに父は帰らぬ人となっていた。
あまりに突然の事にその事実を受け入れる事が出来なかった。
周りの大人達が親身になってくれたから何とかなりはしたが、気持ちの整理はいまだ付かず現実味がない。そこへ急に現れた兄。
「なんで……なんで!!」
病院で泣いた以来、だけどあの時は上げなかった声を上げて明日香は泣いた。号泣、という言葉が合うような泣き様を兄弟は黙って見守った。
言いたい事は沢山あるのにそのどれもが声にならない。
今頃帰ってきたって遅いのに。居場所は誰も知らなかった筈なのに何故このタイミングで現れたのか。
しゃくりあげながら兄を睨みつける。
「……話は後でちゃんとする、でもこれだけは言っておくな……親父とは少し前に和解……っていうのかな……会ったんだ」
「えっ……?」
「今度化粧品のブランド立ち上げる……認めて欲しくてな……親父は驚いたけどちゃんと祝ってくれたよ、お前には……誕生日に驚かそうと思って黙ってたんだ」
「なにそれ……」
「大和が連絡してくれたんだ」
「……え?」
今年中学生になった大和はまだあどけなさを残した顔で二人を交互に見た。
「にぃにを見つけたんだよ」
別れた時と同じ呼び名。
見つけた?不思議そうな顔の明日香に大和は充電をしっぱなしで放置してあったスマホをコードから外し持ってきた。
「これ、にぃにだってすぐに分かった……それからDMして……連絡取り合ってたんだ……父さんにも……オレから話したんだ」
ある動画サイトを見せてくれた。目の前の兄と同じ顔がサムネに映っている。
「何よ……」
「ホントはねーちゃんに直ぐ言おうって言ったんだよ、でも……」
「散々喧嘩して出ていった手前……何となく……言い出しにくてて、父さんも同じ、だからお前の誕生日にサプライズしようって……」
「……何よそれぇ……」
一旦は泣き止んだ明日香だったが、再び目尻に涙が浮かぶ。
「遅くなってごめんな、直ぐ帰ってこれなくてごめん、日本にいなくてな、これでも最短で帰って来たんだ……」
「美恵子おばさんが今日来てくれる……」
「そうか……」
「……」
「とにかく、何か食べて休んだ方がいい、おばさん来るにしたってまだ少し寝れるだろ」
「……うん」
「にぃに」
「ん?」
その呼び方は仲が良かった頃の家族を思い出す。
言いたい事はまた後で言おう、何だかホッとしたら眠気が押し寄せてきた。
「おかえり、にぃに」
「………」
「お兄ちゃんおかえり」
今更だ、そう思ったが大和に続き素直に声に出せた。
兄は驚いたような顔をしたあと、少しだけ涙ぐみ綺麗な顔で笑った。
「ただいま」
完
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