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かつて、「明日から会社違うんだ」って男泣きしていた父さんの背中を思い出す。
頑張りものの父さんを泣かすなんて、ひどい会社だと憤り恨んだ、幼い私のピュアな心を返してほしい。
「乗らないって何度も言ったでしょ。待合室で問題集解いてる」
「はあああ。いい子だなって褒めるべきなんだろうが、さびしいなあ」
「はいはい」
肩を落として二回りくらい小さくなった父さんの背中を押して、エレベーターの搭乗口を目指す。
受付カウンターで私の分のキャンセル手続きを済ませ、手荷物検査の列に並ぶだけとなったとき、そうだと父さんの表情が明るくなった。
「なら、帰ってきたとき『ただいま』って言うから、ちゃんと『おかえり』って言ってくれよ」
「たった数時間なのに? せっかく宇宙行くんだから、もっといい感じのセリフ考えてよ」
「何を言うんだ。宇宙だからこそだ。いってきますで乗り、ただいまで降りる。非日常のなかの日常。うん、これがいい」
「よく分かんないけど、好きにすれば?」
「おう。じゃあ行ってくるからな」
「あ、待って待って。お母さんの写真は?」
「もちろん」
ボディバッグからパスケースを取り出し、そこに挟まった写真を見せてくれる。
小さな私も写った家族写真。
母さんがまだ元気だったころの、わが家に欠けがなかった時代の……二度と戻らない瞬間が写っている。
「うん……じゃあ、『いってらっしゃい』」
「『いってきます』」
*
エレベーターの出発は静かなものだった。
まあ、大型とはいえエレベーターだから、当たり前なんだけど。
ロケット打ち上げのような派手さまでいかなくても、もうちょっと仰々しさがあってもいいのにね。
目的地の低軌道ステーションは、高度数百キロメートル。
片道数時間だから、昼過ぎの今から出発して、夕食どきには帰ってくる予定だ。
「さて……勉強するか」
父さんを乗せたクライマーと呼ばれる車両が雲の向こうへ消えてから、私は自分自身に言い聞かせるためにつぶやいた。
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