道化る

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 アルファとして、女として、自分の性欲が強いと感じたことはない。むしろ薄いほうだと思っていた。性体験は、なくはないけれど、おそらくは少ないほうだ。アルファの発情なんて自分には無縁なものだと考えていた。  私のせかいが、彼の手によってひっくり返される。何かが零れ落ちて散らばる音が脳内でこだまする。整った秩序はひとたび失われると、二度と元には戻らない。 「……また会いたいなあ」  ほとんど無意識に漏れた言葉に、莉子が揶揄うように言う。 「縛られたいの?」 「ちっ、が、ふつうに、」 「ふつうに?」 「……ともだち……から、はじめられないかな」  なんでもいいから、もう一度会いたい。莉子は呆れていた。  「さてはあんた、ドMだな」  ——俺を抱きたい?  あの囁きが耳の内側にこびりついたままいつまでも離れてくれない。何度も何度も、頭の中でリピート再生させる。飽きることなく繰り返す自分に呆れる。  夜。閉じたカーテンの向こうで雨粒が硝子を叩く音がしている。自室のベッドに横になって目を閉じる。  手のひらで受けとめた白濁を舐めとる舌の赤さ。すらりとした綺麗な指先。色の濃い瞳。安っぽいシャンデリアの強い光に翳ったまつげ。  思い出すほどに、なぜか記憶は薄れるどころかむしろ強化され、細部まで鮮明になっていく。  だから思い出すほどに、あの青年の容貌が非常に整って美しかったことを時間差で目の当たりにする。  オメガは生殖に特化した性だから、優秀なアルファの目を引くために自らは美しい姿をしていることが多いのだと聞いたことがあるけれど、嘘かまことかはわからない。  動物のなかでもいくつかの種の雄は雌の目を引くための美しい色を持っているから、あながち間違いではないのかもしれない。本当のことだとして、人間だと雌(精子を生産する雄に対して、という意味で)であるオメガのほうが美しいのはどうしたことだろう。生命のふしぎだ。  オメガの男性は数が極めて少ない。アルファの女性も少ないけれど、それよりもっと希少なのだ。だから、今までの人生で私はオメガ且つ男性である人物に出会ったことは一度もなかった。
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