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押しのけられたAD飯村さんの声が背後から聞こえるけれど耳に入ってはこない。
ほんの十数メートルを全速力で駆ける。パンプスの七センチのピンヒールを猛烈に呪いたい。フラットシューズならもっと早く走れるのに。一秒でも早く、彼のもとに行けるのに。
ピンヒールを粗暴に鳴らしながら走り寄ってくる私に、彼が気づいた。ばっちり目が合う。私が笑うと、彼は素知らぬ顔でくるりと身を翻した。
「——待って!」
彼のシャツの背中をぎゅっと掴む。その瞬間、あまりに勢いがよかったものだから、ボタンがプチっと音を立てて弾け飛んだ。
振り向いた彼は少しの遠慮もなく鬱陶しげな表情をしている。特に視線。目で語るにもほどがある、少しは自重してくれないか。
「……首締まってるんだけど」
「あっ、ごめんなさいっ」
慌てて手を離す。
「ボタンどっかに消えたんだけど」
「ごめんなさい弁償します、でも、あなた、私に気づいてたくせにどこか行こうとしてたじゃないですか」
「そりゃあ、鬼みたいな形相で走ってくる女がいたら、普通知らない顔して避けるでしょ」
「そんなひどい顔してました?」
「お天気コーナーファンが見たら幻滅するレベル」
「お天気コーナーにファンなんていないよ」
「それか、お天気キャスターのファン」
無感情に指摘され、途端に恥ずかしくなった。すがたも見えない不特定多数のひとたちのために無駄に愛嬌を振りまいていた、つい数分前までの自分がひどく軽薄な女のように感じられて。彼にも軽薄な女だと思われていたらどうしよう、だなんて。
冷静に考えてみれば、このひとには一番恥ずかしい部分と場面を既に見られているのだ、なにを取り繕おうとも全部今さらなのに。
私は心のなかで両手の拳を握りしめ、自分を奮い立たせる。出会いが最悪だったから、失うものなど何もないはずだ。
「あの、時間あったら、これからお茶でもどうですか」
自分から異性をこうして誘うのははじめての経験だった。
意外にも彼は、「ちょうど昼飯食べに行こうと思ってたんだ、奢ってくれるならいいよ」とあっさり了承した。
「いいですね、一緒にランチしましょう。諸々のお詫びを兼ねて奢らせていただきます。なにか食べたいものあります?」
「餃子」
「餃子? すきなんですか?」
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