9人が本棚に入れています
本棚に追加
記憶が蘇って、さすがにちょっと焦る気持ちが芽生えた。数日前の夕食の席で母が言ったのだ、あれは「小春もなにかやりなさいよ」と暗にメッセージを込めていたのかもしれない。「ぼうっとしてちゃだめよ」と。
じりじりと灼かれる首筋に冷や汗が浮かんだ。
「お母さんのとこのインターンって、なにやるの?」
「さあ。今までインターン受け入れたって話聞いたことなかったし、今年からなのかも」
莉子は歩きながらスマートフォンを取り出し、手早く検索する。
”政治家 インターン”
「へえー、なんか見習いみたいなことやるんだね。演説に立ったり、ビラ配ったりもするんだってさ、すごいな」
凝ったアートを施した長い爪先で画面をスライドさせる莉子を横目に、私は、母から事務所に来るように言いつけられていたことも思い出した。
母は私が五歳の頃に実業家の父と離婚して、十歳の頃から代議士をやっている。元・お茶の間を虜にした人気キャスターで、私とふたりの兄、あわせて三人の子を持つシングルマザー。年相応に進化した美貌を携えて、閉じた男社会である政治の舞台で戦う、強い女性。世間のイメージはそんなところだ。
実際、母は強い女性なのだと思う。娘の私から見ていても疲れるくらいの負けん気と向上心を持っているのは、アルファとしての性によるところもあるのだろうか。
オオカミにもアルファ・ベータ・オメガの区別(それは性別とは少し異なる)があって、群れのなかで一番強い雄をアルファ雄、同じく一番強い雌をアルファ雌と呼ぶらしい。父もふたりの兄も私もみんなアルファの、家庭という群れにあって、母は間違いなくアルファ雌だ。
母を間近にしていると、自分の第二の性がアルファであることが奇妙な冗談に思えてくる。
都心の小綺麗なビルに構えた母の事務所は、いつでも空気がぎらついている。床に敷き詰められた黒の大理石と、レフ板のように母の目尻の小皺を消してしまう過剰な照明がそう感じさせるのかもしれない。
ともかく、母の機嫌を損ねるのはできるだけ避けたいので、私は言いつけられた通り、約束の事務所に到着した。時間は、指定の午後二時、十分前だ。
早かったかもしれないと恐る恐る入口扉を開けると、てきぱきと秘書に指示を出す母と早速目が合ってしまった。
「ちゃんと来たわね」
最初のコメントを投稿しよう!