潮染む

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 正直、母の話の大半はおぼえていないのだけれど。訊きたいことは山ほどある。母にではなく、隣の彼に。ありすぎて何から尋ねたら良いものか悩むほどに。 「……あー」  私は母から目を逸らし、傍らの彼を見た。濃い色の瞳が硝子玉のように光を集めてきらめている。あまりの美しさに、食べてしまいたい、と不可思議なことを思った。狂ってる。あの日雨のなか出会ってから、私は彼のすべてによって狂わされている。  逡巡しながら開いた唇は嫌になるほどかさついていて、ここへ来るまえにリップを塗り直してくるんだったと後悔した。 「……名前、漢字でどう書くんですか?」  捻り出した問いに、彼は柔らかく口許を緩ませて、答えてくれる。二度目の駅前で、私に口付けた唇が、滑らかに動く。 「朝昼夜の夜に、長い短いの長い、それに、冴える、で、冴です」 「冴える?」 「にすいに牙の」 「ああー、なるほど」 「小春さんの漢字は、小さい春で合ってます?」 「え? 合ってますけど、」  あなたそんなこと知ってるじゃないですか、と喉もとまで出かかった言葉を呑み込んだ。  でも言いかけた科白が彼にだけはしっかり伝わってしまったのか、瞬間的に瞳から温度が失われる。  片岡涼平、あらため、夜長冴は、双眸だけで私に圧力をかけた。母親には言うなよ、許さねえぞ、と。口だけで笑った彼は、私の前に左手を差し出した。 「これからよろしくお願いしますね、小春さん」  三十分足らずの顔合わせを終えて、この日は終了となった。  忙しい母が秘書に呼ばれ慌ただしく応接室を去っていく。「ありがとうございました」とやっぱりアイドルみたいな微笑みで母を見送った彼は、扉が閉まった瞬間に仮面を剥がしたかのように無表情になり、さっさと荷物をまとめはじめる。 「……片岡涼平さん」 「三度目があったね。日比小春さん」 「なんで無駄な嘘ついたんですか……偽名だし年も大学も全然違うし……」 「だって怖いじゃん、俺あんたに性的暴行働いたわけだしさ、恨まれてても文句言えないし、ばれたら社会的に死ぬし」 「そんな……そりゃあ、あれはちょっと……ですけど、助けてくれた恩人でもあるわけですから、」  鞄を手に彼が立ち上がる。 「じゃあ、母親には黙っててね」 「黙ってる代わりにお願い、聞いてくれますか」
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