泥濘む

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 花のような笑みを浮かべながら私にだけ聞こえる音量で囁いた彼は、やっぱり小悪魔だ。そして、寝不足の理由が自慰だと完璧に決めつけられているあたり、自分でもどうなんだろうと思う。でも事実なので否定のしようもなかった。  今日は、昨日のポスティングとは打って変わって、母が代表理事を務めるNPO法人主催のセミナーを見学に来ていた。アルファ・ベータ・オメガ——つまり第二の性の差別をなくそう、を標榜にした団体らしい。  母がこのような活動をしていたことを私は知らなかったけれど、さゆに言わせれば、「今までどんだけ母親の仕事に興味なかったの? 先生といえば、第二の性問題を専門にしてる政治家の代表みたいなもんだよ」らしい。 「そうなんだ。知らなかったなあ」 「特に、オメガの権利の向上、オメガへの差別撤廃を目指してるんだよ。このNPOも、そのひとつ」 と月木さん。 「そうなんだ……」   ちら、とさゆを横目に見る。当然気付かれて怪訝な顔をされる。 「なに?」 「ううん」  もしかして彼が母のインターンなんかを熱心にやっているのは、そのためなのだろうか。さゆの言動からはアルファ嫌いであることが時折垣間見える。  アルファを嫌悪するオメガだから、オメガがアルファによって不利益を被ることない世界を目指しているのだろうか。  アルファとオメガの関係は、強者と弱者、虐げる者と虐げられる者——時代や世界構造が変わっても、第二の性が誕生した古来より、大原則は変わらない。アルファの発情を誘発しフェロモンによって誑かすオメガは、時には魔女だと怖れられ、蔑まれてきた。  オメガがアルファから受けた性暴力は、ほとんどの場合オメガ自身に非があるとされ、被害者として守られるどころか加害者のような扱いをされる。遠い昔には迫害を受け、罪のないオメガが次々と殺された歴史が、世界の至るところで存在している。  成熟した現代社会では、あからさまな差別などは目に見えるところには滅多に表出しないけれど、発情期には通常の社会生活もままならない、ともすると優秀なアルファを発情させ狂わせてしまうかもしれないオメガが、社会の中枢で活躍することは難しい。  政治、文化、スポーツ、どんな分野でも最前線で活躍し続けているのは、そのほとんどがアルファであるとされている。
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