強請る

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強請る

 出会いはけっしてロマンチックなシーンではなかった。  背景は繁華街の片隅、煙草の吸い殻と吐き捨てられたガムがこびりついたアスファルト、うっすら下水の匂いのする細い路地。六月の昼下がり。  今日は次第に天気がぐずつき、夕方には雨が降り出すでしょう。お出かけの際は折り畳み傘をお忘れなく。  テレビ画面のなかでそう言ったのは私だ。  土曜の朝の情報番組の、二分間のお天気コーナー。短い原稿を読んでカメラのレンズに向かって愛嬌を振り撒くだけのお天気お姉さんの役を春に拝命して、はや二か月が過ぎた。  天気がぐずつく、なんて、それまでの人生で一度も使ったことのなかった表現を、この短期間ですでに何度か口にした。先週梅雨入りしたから、さらに頻度は上がるかもしれない。お天気コーナーの原稿は驚くほど少ないパターンの文言の使い回しで構成されている。  都会のビル群によっていびつに切り取られた灰色の空はぶ厚い雲に覆われている。昼なのにあたりは薄暗い。夕方を待たずに今にも雨が降り出してきそうだ。  小汚い昼の繁華街を横切っているあいだに雨にも降られるなんてさいあくだ、と、自然と小走りになる。  華奢なミュールの踵がアスファルトに擦れてかつかつと音を鳴らした。さいあくだ、最短経路だと思って選んだ道が汚くて臭いことも、約束の時間に遅れそうなことも、そもそも気乗りのしない約束を強制されたことも。  歩く頬にぽつりと雫が垂れた。耐えかねた曇天が落としたひと粒が涙の軌跡のように顔を縦に流れた。あ、ほんとうに降ってきた。  思わず立ち止まったのと、曲がり角で急にあらわれた人影にぶつかりそうになったのはほぼ同時だった。 「っ、ごめんなさ、」  反射的に言い終える前に、目が合って、瞬間、言葉を失う。  それは、引力としか表現し得なかった。  彼の双眸に映されたらもう、私は動けなくなっていた。一ミリも視線を逸らすことができなかった。  もしかしたら、お互いに。  表現のしようがない強烈な衝動が喉元まで込み上げ、息が詰まる。心臓が痛いほどに烈しく収縮している。出会えた悦びに全身が指の先までうち震え、——少しだけ、後悔した。 「え、なに、なんなの、どうして、」  雨はすぐに本降りになる。  雨粒に紛れて涙が流れる。
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