泥濘む

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 そう言って笑うから、飽和状態に近かった気持ちがどうしようもなく、溢れた。彼の背中に腕を回して、その胸に顔を思いきり埋めた。 「ねえ、またデートしてくれる? 今度はちゃんとプラン練ってくるから。何パターンも考えて、絶対に楽しんでもらえるように、ちゃんと準備するから」 「いいよ別に。行き先決めずに出掛けるのも楽しいし」 「じゃあ今日、さゆは楽しかった?」 「まあ」  ぎゅう、と腕に力を込めると、呼応するように私の背にも腕が回される気配がした。 「私と付き合うメリット、見つかったね。さゆにとってのメリットがたくさんある人間になれるように頑張る」 「そんな、ひとを損得感情でしか動かない奴みたいに言わないでくれる」 「ふふ」 「そろそろ離れてもらっていい?」 「もうちょっとだけ、お願い」  さゆの腕のなかは、夏の一日を過ごした少しの汗の匂いと、水族館の塩の匂いと、嗅ぎ慣れた甘い匂いがした。普段とは少し違うその匂いに、アルコールよりもずっと簡単に、酔わされてしまいそうだった。   ◆  暦の上では夏が終わり、涼しい風が午後に吹き過ぎるようになり、長い大学生の夏休みの日数はもう指で数えられるほどしか残されていない。夏休みの間だけ、という約束ではじまった母の事務所のインターン生としての日々もあとわずかだ。  私とさゆには最後の大仕事として、共同で政策立案するという課題が課せられた。最終日に母に向けてプレゼンテーションを行う予定である。その準備のため、インターンで働く日以外もほとんど毎日、私たちは顔を合わせ続けている。  私は有頂天でありながら、心の隅で慄いてもいた。  インターンが終わり互いに大学がはじまってしまうと、会う機会が確実に少なくなる。目前に迫るさゆ供給不足、なのに現状はあまりにも供給過多だ。どうにか上手い口実を見つけてこのまま毎日会い続けられないものかと頭を悩ませている。 「さゆ、一緒に暮らそう」  「なんか言った?」  カフェのテーブルを挟んだ向こう側で、彼は資料の束に熱心に目を通しているために、私に視線を向けてはくれない。 「だから、一緒に住もうよ。どこか部屋借りてさ、ふたりで」   もう一度言ったところで、返ってくる反応は薄味だ。 「ばかなこと言ってないでパワポ作ってくんない?」
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