泥濘む

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「手は動かしてるよ」  ふたりで出し合ったアイデアをもとに、さゆが具体的な内容をまとめて、私が発表用のスライドを作成するという役割分担になっている。  ちゃんとやってますよ、と主張しようと手許のノートパソコンのキーボードを大袈裟に人差し指で叩いた。「さ」の文字がまっさらなスライドを埋め尽くしていく。 「だめ? 楽しいよきっと」 「一緒に住む理由が見当たらないんだけど」 「そんなの一緒にいたいからだよ」  「なんで家族でも恋人でもないのに同居すんだよ」 「恋人になろうって何回も言ってるじゃん」 「やだって何回も言ってる」 「じゃあしょうがない、妥協する、これから毎週末必ずデートでどう?」 「だからなんで恋人でもないのに」 「友だち以上、恋人未満な仲じゃん」 「そんな仲になった覚えはない」 「大学はじまっちゃったら私、さゆが足りなさすぎて死んじゃうかも」 「斬新な死因だな。先のこと心配してないで、目の前の作業終わらせてくれる?」  なんとつれない。私はテーブルに顔を突っ伏した。 「おい、狭いんだからやめろって」 「『小春さんかわいい』って百回言ってくれたらいいよ」 「あんた本当面倒臭え」 「やっぱり一回で良いから言って」 「ぜったい言わない」  むくれつつも顔をあげ、上目遣いに彼を見る。  白い首筋、上下する喉仏、どこか色っぽい唇。  店内に満ちた珈琲の香りに紛れて、甘い匂いが漂ってくる。糖度が高くてみずみずしい、熟れた果実のような。この手で摘み取りたくなるような、貪りつきたくなるような、私の奥底の動物的衝動をじかに刺激する、オメガである彼のフェロモン。 「さゆ、発情期?」 「どうして?」 「なんか、いつもよりも匂いが濃い気が……」  さゆは眉を顰める。 「俺、抑制剤効いてるから発情しないよ」 「そうなの? でも最初会ったときは私の発情誘発したんだし、発情期だったんだよね」 「まあ、タイミング的には」 「周期的にはそろそろまた発情期なんじゃない?」 「……他人に発情周期計算されるの気持ち悪いな」  本気で嫌そうな顔をされたので、私は素直に謝って話を終わりにした。  でもやっぱり、いつもより濃いんだよなあ。
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