泥濘む

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 思わず手のひらで口許を強く押さえた。吐き気の高まりとは逆に、高ぶった下腹部の熱が霧散していくのを感じた。  比例して、強すぎるフェロモンによって霞がかった脳内が、理性が、クリアになっていく。吐精直後よりも大きな虚脱感が襲ってくる。吐きそう。 「タクシー呼んだから、とにかく出よう」  戻ってきたさゆにしがみついて続きをせがむことなんて、もはやできなかった。喉下まで出かかった嘔吐感を堪えているのが精一杯だった。私の乱れた着衣をもとに戻し、肩を抱いて会議室から連れだそうとする肢体に寄りかかりながら、濃密な甘い匂いをできるだけ吸い込まないよう、浅く息をした。  事務所が入ったビルの前でタクシーに乗る。車内には芳香剤や運転手の整髪料の匂いが満ちていて、必死で抑え込んでいる吐き気が助長され、耐えきれずさゆの胸に顔を強く押し付けた。  ネクタイははずされ、ワイシャツのボタンはふたつ開いたたままだから、露わになった首筋からひときわ強い匂いが放たれている。この匂いに溺れてしまえばまた、本能のままに求めてしまう。タクシーに乗っていようが何だろうが構わず、彼の腰に跨って、独りよがりな快楽を得ようとしてしまう。  触れる彼以外の感覚を、彼から匂い立つ濃厚なフェロモンですら遮断しようとするのは、あまりにも難しかった。  車内で揺られること十数分。連れられるままにタクシーを降り、気づけば高級感のある高層マンションの、広々とした部屋のなかにいた。 「どこ……?」 「俺の家」  介助されるまま、寝室のベッドの縁に腰をおろす。  弾力のあるマットレスが太腿の下で軋んだ瞬間、耐えきれなくなって、吐いた。さゆの胸に顔を埋め限りなく密着したままだから、当然、清潔なシャツとジャケットが吐瀉物をすべて受けとめることになる。 「よりにもよってスーツのとき、二度も汚物かけられるとは」 「ご、ごめん……」  怒っているよりも、呆れているような声だった。吐いてしまうと、感じていた気分の悪さが嘘のようにどこかへ消え去っていて、むしろ爽快ですらあった。  けれど口のなかには苦い吐瀉物の残滓があって、酸っぱい悪臭が鼻腔を掠めるから、いっそ逃避してしまいたい。
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