きっとロンドンで

4/8
前へ
/8ページ
次へ
 アルマンドを6本、身体に注いだのに、酔いが回っていないのは、私がアーロン貯金を貯め終わったからに違いない。  不快な雨の音は、アーロンのシャウトによって、かき消される。  アーロンとセッションができる!  頭の中は、そのことで、いっぱいになって、ギターケースを抱える腕の力をさらに強める。  ふと、後ろから肩を叩かれた。 「よう」  振り返った先には、傘を差して、重そうなリュックサックを背負った店長が、ぱんぱんのレジ袋を片手に仁王立ちしていた。 「店長?」 「とりあえず卒業おめでと、まあ、決起集会というか、少し話でもしないか」  流石に部屋に連れていくことはできないため、二人で近くの公園のベンチに腰かけた。  ベンチの頭上には、屋根があって、私たちは、傘をさす必要がなかった。  歓楽街から離れた夜の公園では、水たまりに雨粒が、ぽつぽつと落ちる音しか聞こえない。  缶コーヒーの輪郭をなぞっていると、店長はおもむろに口を開いた。 「いつ、ロンドンに飛ぶんだよ」 「明後日です」 「はっ?明後日?急すぎないか?もう少し………」 「全然、急じゃないです」  私の語尾が強まったせいか、しん、とした空気が一瞬流れる。  "お兄さん"と声をかけるには、ためらいを覚える店長と私との接点は、同じ場所で働いていることくらいしかなく、この沈黙を打ち破る新たな話題が思いつかなかった。  雨足がさらに強くなる。私は、口いっぱいに菓子パンを押し込んで、思い切り咀嚼した。  店長は、煙草に口先にくわえると、数秒後には咳き込んでいた。こんなもの吸えたもんじゃあないな、と呟く。 「なんで、店長は煙草、吸うんですか?」 「ああ」 「ああ、じゃなくて、なんで煙草、吸ってるんですか?苦手ですよね」 「それは………別の人間に生まれ変わることの苦しさを味わうためかな」  なんですか、それ、と突っ込んだ私の声は、菓子パンと雨の音にかき消された。けれども、この話題を皮切りに店長は、私に対してぽつぽつと間を縫うように質問しだした。 「かおりって何か好きなものあるのか?」 「アーロンです」 「いや、違う、いや、違くはないけど、それ以外で何か好きなものはあるのかっていう意味で」 「アーロンです」 「ところで、かおりってほんとににアーロン好きなのか?」 「だから、さっきからずっとそう言ってますよね」 「好きだったら、普通、恋人になりたいとか、結婚したいとか、そういうこと考えるんじゃあないのか?」 「それは………その」 「大体さ、事情が事情なだけにさ、政府に申請してみたらどうなんだ。助成金出してくれるかもしれないだろう」 「うっ」 「そもそも、セッションっていうのがふわふわしてないか?なんか曖昧っていうかさ」 「あの」 「てかさ。違ってたら、謝るんだけど、アーロン、もう死んでね?」  もう死んでね?という言葉が私の胸の中で反響する。  もう死んでね?という言葉が身体の内側に張り付く。  指先がどんどん冷えていく。 「あのっ!なんか、いろいろ言ってますけどっ!私、絶対、ロンドン行きますからっ!大体、店長に何も関係ないでしょ!」 「関係あるさ」  店長は、私のセリフにかぶせ気味にしゃべる。 「だって、俺は、の父親だからな」  は?父親??  混乱する私をよそ目に、店長は、ギターケースに手をかける。そのまま弦のついた細い部分を持つと、斧みたいに振り上げた。  店長は、全部、俺のせいなんだ、と呟くと、勢いよくギターを振り下ろした。  ギターは、世界が終わるみたいな音を立てて、はじけ飛んだ。胴体の部分が、真っ二つになっている。   え?  ますます混乱する私を横目に、店長は、大きなリュックから流れるように真っ白な箱を取り出した。それが、遺骨を納める骨壺だと気づくのに時間はかからなかった。    視線が交錯する。  「かおる、俺は、もう逃げない」  その時にようやく思い出した。 なぜ、忘れていたのだろうか。私が、女ではないということを。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加