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これは三年前、社会人になったばかりの俺が体験した奇妙な話である。
当時の俺はまだ新人で右も左も分からず、ただ仕事に追われる毎日だった。
上司からはパワハラとも呼べる無理難題を押し付けられ、逃げる術もなく、ただ耐えるしかなかった。
家に帰るのはいつも深夜。
体も心も限界に近づきながらも、毎日をこなすだけの生活が続いていた。
自分をすり減らし、何の喜びも楽しみもなく、ただ日々を消費するだけの人生。
その日もいつもと変わらない日になるはずだった。
残業を終えたばかりの疲れた体を引きずりながらとぼとぼ歩いていると、夜道で不意に声をかけられる。
「ご主人様、お疲れ様です。 よろしければ、うちのメイド喫茶『とわのもり』に寄っていきませんか?」
死んだ目をしていた俺に声をかけてきたのは、メイドのコスプレをした女の子だった。
彼女はスカートに着いた名札を見せ、「みさき」と名乗った。
なんだ客引きか。
そう思い、肩を落とす。
だが、その日は仕事でミスをして気分が落ち込んでいたこともあり、まあ気晴らしになればいいかと軽い気持ちで付いて行った。
案内されたメイド喫茶「とわのもり」は、想像していた通り、かわいいメイド姿の女の子たちがいっぱいの非日常的な空間だった。
店はビルの二階にあり、内装はややレトロでこぢんまりとしていた。客は新規の俺を除くと四組だけ。
店に入るなり、アニメみたいに可愛いコスプレをした女の子たちが「お帰りなさいませ、ご主人様!」と整列し、笑顔で迎えてくれた。
初めて来たはずなのに、まるで常連のように扱われて面食らった。
けれど多分、メイドカフェではこれが普通なのだろう。
そう思い、深くは考えないことにした。
席に着くと、先程ここまで案内してくれた「みさき」がメニューを持ってきて、店のオプションや注意事項について丁寧に説明してくれた。
一人二時間制で、チャージ代千八百円にドリンク付き。その他のサービスはオプションとして適宜追加できるとのこと。
俺はひとまず緊張をほぐすためにアルコールを注文した。そして、それからのことは正直、あまり覚えていない。というより、思い出すのも恥ずかしいというか……。
まあ要するに、少々羽目を外しすぎたのだ。今さら言い訳にしかならないけれど、俺なんかがいきなり大勢の若い女の子に囲まれ、「ご主人様」なんて呼ばれてちやほやされる状況で、普通でいられるはずがなかった。
結局、その日、人目も気にせずはしゃぎにはしゃぎまくって、帰宅した。
退店間際、今日の担当だったみさきの名札と連絡先をもらった。
「いってらっしゃいませ~」
そう送り出されたころには、俺はもうすっかり有頂天になっていて、恥ずかしげもなく大声で「愛してる」などと叫んでいたと思う。
ほんと今思うと、恥ずかしい限りだ。
翌日以降、みさきからメッセージがくるようになった。「今日はお店来る?」「早く会いたいな」といった甘い誘いに、俺はついつい乗せられ、気がつけば週に一回のペースで「とわのもり」へ足を運ぶようになった。
キャバクラほど高くはないし、毎回一万円以下で二時間も可愛い女の子がつきっきりで接客してくれるのだから、コスパは悪くないと自分に言い聞かせていた。
しかし、店に通う中で次第に奇妙なことに気づき始めた。
カウンター席に座る中年男性、窓際で談笑するオタク風の学生二人、奥の席で黙々とオムライスを食べるスーツ姿の男。
いつも同じ顔ぶれの客しかいない。
何となく変だと感じた俺は、みさきにそれとなく聞いてみることにした。
「ねえ、みさきちゃん。 ここにいるお客さんだけどさ、いつも同じ人たちばかりな気がするんだ。あのカウンターの人や、窓際の人たちとか、なんていうかずっとここにいるみたいで正直気味が悪いなって……」
みさきは俺の質問に一瞬真顔になったが、すぐにまた柔らかく微笑んで言った。
「この店は、常連のお客様が多いですからね。皆さん、リラックスするために毎日戻ってこられるんです」
「ああ、そう、だよね……」
彼女の言葉には、どこか説明しきれていないものを感じた。だが、俺はその日、それ以上突っ込むことはせず、みさきの作った特製ジュースを一杯飲んで店を後にした。
ある日、俺は常連の一人に勇気を出して話しかけてみた。カウンター席に座る中年のおっさんだ。
「こんばんは。 この店、よく来られるんですか?」
横に座って話しかけたのに、反応がない。
おっさんは俯いたまま、こちらを見ようともしなかった。
あれ、聞こえていないはずがないよな……。
「あ、あのー」
妙だなと思いながら、さらに声をかけようとした瞬間、ふとおっさんの顔が目に入った。顔色が妙に青白く、まるで死人のようだった。
肌は蝋細工みたいに不自然で、明らかにこの世のものではない。
次の瞬間、おっさんは低く、かすれた声で言った。
「あんた、いくつだ?」
「え、年齢すか? 二十四ですけど……」
おっさんはゆっくりと顔を上げた。その目の奥には、壊れてしまった何かが宿っているように見えた。
「もう、こんなとこ来るんじゃねえ。 戻れなくなるぞ」
「戻れなくなる?」
その言葉に、俺の胸がざわめいた。何を言っているのか分からなかったが、その異様な雰囲気に不安を感じずにはいられなかった。おっさんは再び口を開き、俺をじっと見つめてこう言った。
「ここは冥土の入り口だ。 人生を諦めた奴が来る場所なんだよ。 あんたはまだ若い、今ならまだ間に合う。 この店に通い続ける者はやがて現実に戻れなくなる。 俺たちはもう……戻れない」
おっさんの言葉に、俺は全身が冷たくなるのを感じた。冗談だろうか? しかし、その低く押し殺したような声は、冗談だとは思わせない何かがあった。
「冥土……? 何を言ってるんですか?」
おっさんは深いため息をつき、俺にさらに語りかける。
「あんた、気づいたんだろ? 毎回同じ客ばかりだって。 そうさ、俺も含めて皆、ここから出られなくなっちまったんだ」
「そんなバカな」
俺は半信半疑でおっさんの言葉を聞き続けた。
しかし、その次の言葉が俺を完全に凍りつかせた。
「この店は向こう側、つまり死の世界とつながっているんだ」
「死の世界……」
「ああ、メイドたち————彼女たちは俺たちを待ち続ける存在なんだよ。いつまでも、ここで『おかえり』って迎え続けるんだ。永遠にな……」
俺は言葉を失った。
今まで、ただの楽しい時間を過ごしていたつもりだったのに。
「まだ間に合ううちに、早くここから抜け出せ」
おっさんの目は、まるで切迫した何かを俺に訴えかけているようだった。それが恐ろしく、背筋が凍りついた。
「コーヒーをお持ちしました」
ふと声がして、はっと我に返った。気づけば、みさきが俺の前にコーヒーを置いている。おっさんの言葉に心を囚われていたせいか、まったく彼女の接近に気づかなかった。
「どうかされましたか? お顔色が悪いようですけど」
みさきの声は優しい。しかし、その裏に何か別のものを感じ取った俺は、動揺を隠しきれず、急いで顔を背けた。
「いや、なんでもないよ。ちょっと考え事してただけ。あの……今日はもう帰ろうかな」
俺はなんとか誤魔化そうと笑ってみせたが、心の中はおっさんの言葉が渦巻いていた。「冥土の入り口」————そんな馬鹿な話があるはずがない。
だが、確かに何かが変だと頭の中で警鐘が鳴り響いていた。
「そうですか……」
俺を見るみさきの目が細く鋭いものになった。これまでに見たことのない、まるで射抜くかのような冷たい視線。
だが、それもほんの一瞬のことで、すぐに彼女はいつもの柔らかな笑顔を取り戻し、変わらぬ優しさで俺に微笑みかけた。
「ではまた、お帰りをお待ちしていますね。ずっとずっと待ってますから」
俺は急いで店を後にしたが、背後に残る彼女の「ずっとずっと」という声が、どこか不気味に響いていた。
それ以来、俺は「とわのもり」に行かなくなった。メイドたちの笑顔も、みさきからの連絡も、すべてが虚ろに感じられ、関わることが怖くなったのだ。
あれから数日後、珍しく残業もなく早めに帰宅できた日、玄関の前に立った瞬間、スマホが鳴った。見知らぬ番号からのメッセージだ。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。メイドカフェで聞いたのと全く同じ文言が、メッセージとして送られてきたのだ。削除しても、また削除しても、立て続けに何度も同じメッセージが送られてきた。
俺は携帯を床に叩きつけ、踏みつけて壊した。ようやく静かになったかと思った瞬間、耳元で声がした。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
それは聞き慣れた声だが、どこか冷たく、機械的だった。
恐怖で体が動かなくなり、そのまま気を失ってしまった。
再び目が覚めたとき、俺はいつの間にやらメイド喫茶「とわのもり」にいた。いつもの席に座っていて、目の前にはみさきが立っていた。
「おかえりなさいませ、ご主人様。ずっと待っていましたよ」
彼女の笑顔はいつもと変わらぬままだったが、その目は底なしの暗闇を映していた。俺はその時、あの常連の男の言葉を思い出した。
「だから言っただろう? 戻れなくなるって」
全身が震え、もうここから逃れられないことを悟った。
どんなに足掻いても、この店から出られないのだ。
俺は永遠に「おかえり」と迎えられ続けるのだと。
「ただいま……」
俺の声は震え、絶望が押し寄せた。
みさきの笑顔が、不気味なものへと変わっていった。
そこでふっと目が覚めた。気づくと、自分の布団の中だ。体中が汗でびっしょりだった。時計を見れば午前七時。マズい。寝坊だ。
こんな悪夢の後でも、会社は休めない。
慌てて朝食を済ませ、身支度を整え、家を出た。
*
ギリギリで会社に着くと、隣の席の同僚Sが話しかけてきた。
「朝から解体工事の音がひどくてな、今日は上司の機嫌悪そうで全く困ったもんだよ」
「解体工事ってどこ?」
「ああ、知らないのか? ○○ビルだよ」
そのビルの名前を聞いた瞬間、俺はドキリとした。
それは、あのメイド喫茶「とわのもり」があったビルなのだ。
「へえ、そうなんだ……そういえばあそこって、メイド喫茶が入ってたよな?」
俺がそう聞くと、Sは怪訝そうな顔をして答えた。
「あそこにメイド喫茶なんてないよ。何言ってんだ?」
絶句する俺の耳に、ガガガという解体工事の音が響いた。
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