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「ただいま」
声をかける。まあ返事をしてくれないことは知っているのだけれど。
「ちゃんと電気つけてっていっつも言ってるじゃん」
そう言いながら電気をつける。彼女はいつもの定位置にいる。暗い中では何かと不便だろうになんでか電気をつけることはない。僕がいれば彼女自身が動かなくても済むようにできるけれど、僕がいないときはもちろんそういうわけにはいかない。僕がいないときに動いているときもあるのだからやっぱり不便なのかもしれない。やっぱり電気をつけっぱなしにして行った方がいいだろうか。けれど電気代は気になるし、普段の習慣として電気を消さないのは気になって落ち着かないからまた今度検討しよう。
「今日は何食べたい?」
これにも返事がないことを知っている。別に僕を嫌っているわけじゃない。ただ彼女はそういう人だし、ぼくはもうそれに慣れている。それに僕は彼女のことが好きだから、だからそんな風でも一緒にいられるのだろう。
かたり、小さく音がする。僕は手を洗ったり着替えたりといった帰ってきてからすぐすることをしていたので見られなかったけれど、彼女が動いた音だ。たまに動いてくれるその瞬間を僕が見られることは少ないけれど、こうやって音で教えてくれる。それに僕は彼女の姿勢を覚えているから彼女が動けばその場にいなくても気付くことができる。今日は音を聞けたんだから、きっと彼女の機嫌がいい日なんだろう。
「じゃあ今日はきのこたっぷりシチューにするね」
そう言いながら夕飯をつくり始める。彼女を一人にしないようにできるだけ簡単に、それでも栄養はちゃんと摂れるようにと考えて作る。この生活の中ではそんなことばかり考えている。
作り終わったら彼女の元に運ぶ。全部僕がやる。彼女が動く必要なんてない。食べさせてあげる。彼女が動く必要がないから。自分の分もちゃんと食べるけれど、まずは彼女に食べさせてから。
「おいしい?」
返事はない。それでも、彼女が食べてくれるなら僕はこれを続ける。
僕の食事まで終わって片付ければあとはお風呂に入って寝るだけ。その移動も全部僕がやる。彼女もそれを当たり前のように受け入れてくれる。
「おやすみ」
ベッドに入って彼女の隣でぐっすり寝る。ああ、今日もしあわせな一日だった。
同僚に彼女の話をすると彼女がわがままだとか彼女の束縛が強いんじゃないかとか言われる。でもそうじゃない。ただ僕がしたいようにしているだけだ。そんなにぞっこんなら写真とかないのかと言われるけれど、彼女は写真を撮らせてくれない。撮ってもいいかを聞いてもいつも通り、動いてくれない。答えてくれないなら勝手に撮るわけにはいかない。だから写真はない。
この間、うっかり同僚たちが僕と彼女の噂話をしているのを聞いてしまった。彼女に関してはほぼ悪口、僕に関しても少し悪口。普通じゃないことくらいわかってるし、僕に聞かせるつもりなんてなかったみたいだからとりあえずは聞かなかったことにした。けれど「あの彼女は変だ」とか「なんでそんなのと付き合ってるんだ」とか「そもそも彼女が実在なのか」とか、そんな話を聞いてしまって割ときつかった。僕が彼女を好きなことに理由が必要だろうか。普通じゃないことくらいはわかっているけれど彼女が変と言われるほどのことだろうか。彼女が実在じゃないなんてありえないけれど、そうだとしたら僕はなんでそんなことをしているのか。誰かが言っていた、「あいついつも変なにおいさせてるよな」。僕には心当たりがないけれど、その場にいたみんなが消極的にだけれど同意していた。「洗濯だけは彼女の担当で彼女はそれすら下手なんじゃないか」なんて憶測を言っているのもいた。そんなわけはない。彼女が動かなくてもいいように僕は全部をやっている。部屋の掃除も、服の洗濯も。誰かが言っていた「知ってる気がするのに思い出せないんだよな」というのは僕が聞きたくなった。だって僕には本当にわからないんだ。においの原因がわからなければ対処ができないのに、においそのものが僕にわからないなら原因を探すことだってできない。
噂話を聞いた日は帰ってから長時間彼女を抱きしめてしまった。彼女は動かないけれど、それでも許可なく動けなくするのは良くなかっただろう。それでもあのときの僕には彼女が必要だった。彼女を抱きしめて、そうして落ち着いてから謝る。けれど彼女は別に嫌そうにはしていない。それだけでも僕はうれしくなる。彼女が嫌なことは全部取り除いてあげたいから。そのくらい彼女のことが好きだから。
ああ、やっぱり彼女がいれば僕は幸せでいられる。
「おはよう」
朝の挨拶をして定位置まで彼女を運ぶ。今日も一日彼女はここから動かないだろう。朝食を食べて、着替える。
「行ってきます」
返事はなくても必ず挨拶はする。彼女がいるから僕ががんばれる。
今日もしあわせな日になりますように。
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