3人が本棚に入れています
本棚に追加
4
そして悠士はろくに準備をしていなかったテストで百点を取った。次に悪い点を取れば夏休みは塾に行くよう両親に厳命されていたという。彼が放課後に味わった恐怖は、安泰な夏休みという幸せに変わった。
来週に一学期の終業式を控えた土曜日、恭介は真一と夏祭りに行った。まだ陽が傾いたばかりの時分だったが、道の両脇にはずらりと出店が並び、学校の友人の姿もちらほら見かける。悠士と春貴とも合流し、握りしめたお小遣いでたこ焼きやフランクフルトを食べて歩いた。電信柱の間に渡されたロープには提灯が等間隔にぶら下がり、淡い光を放っている。蝉の鳴き声に出店の呼び込み、客のはしゃぐ声が入り混じり、夏の始まりに胸がわくわくする。
最後に、唯一のかたぬき屋を訪れた。「昭和感がいいよな」と悠士は訳知り顔をした。
車や恐竜が描かれた長方形の型を受け取り、待ち針でつついて絵柄通りにくり抜く遊びだ。店横に並んだ長机で、四人とも口を利かず型を突く。恭介は飛行機の型を隅から慎重に攻めていったが、最後の一押しで真っ二つに割れてしまった。その頃には悠士はすっかり二枚目に取り掛かり、お小遣いを使い切った春貴はかき氷の続きを食べている。最後の百円玉を使ってしまった恭介が眺めていると、悠士もすぐに型を割ってしまった。
「あ、真一くんすごい」
メロン味のかき氷を食べる春貴の横で、真一が恐竜の型を綺麗にくり抜いた。見るからに難しいティラノサウルスの型を、彼は大事そうに手のひらに乗せて屋台に戻っていく。
そして戻ってきた彼は、一万円札を握っていた。
「マジで、一万ももらったの?」
「そんな景品あったのかよ」
一万円札なんて、年に何度も触ることさえない。恭介があんぐり口を開けると、悠士も悔しそうな顔をする。春貴は「いいなー」とカップの中のシロップを喉に流した。
「じゃあ、帰りに自販機でジュース奢ってくれよ」
「ばっか、自販機って万札使えないだろ」
「そうだっけ?」
悠士と言い合いながら、恭介は肩に腕を回した真一に視線を向けた。そういえば今日はやけに口数が少ない。百円と引き換えに一万円を貰ったんだから、大喜びしてもいいはずなのに。
「どした? 真一」
不思議に思う恭介に、真一は怯えた目を向けた。提灯の明かりに照らされた頬は、心なしか青ざめている。
「……幸せ犬が、くれたんだ」
幸せ犬。その言葉に三人はぴたりと口を閉ざした。いつの間にか子どもたちの間で、幸せ犬は幸福よりも恐怖を多分にもたらす存在になっていた。柴犬、コーギー、ゴールデンレトリバー。放課後の学校に現れる犬たちは、人の言葉を話して自分たちを追いつめる。幸せ犬は、既に不気味で恐ろしい怪談話と化していた。
帰り道で真一が話したのは、昨日の夕暮れのことだった。
家に帰ってから忘れ物をしたことに気が付いた。既に提出期限の過ぎている、音楽の感想文だ。土日に書き上げて週明けに必ず持ってくるよう、教師に念押しされていたプリントを音楽室に忘れてきてしまった。厳しい音楽教師に、一人立たされて説教を受けるなんて恥ずかしすぎる。しかし放課後の学校には幸せ犬の噂がある。今から学校に戻った頃には既に五時を過ぎるだろう。
考えた末、真一は学校に行くことにした。夏祭りのあるせっかくの土日を、悶々として過ごすのはもったいない。ダッシュで行ってダッシュで戻ろう。そう決めて、急いで家を飛び出した。
学校についた頃には夕陽が校舎を焼いていて、誰もいない空っぽの校庭はひどく寂しい光景だった。職員室で忘れ物をしたと説明して、音楽室の鍵を借りた。先生に着いてきてほしいと言えばよかったと、今は後悔しているという。しかし失笑されるのが嫌で、真一は音楽室のある校舎の三階を目指した。今にも階段の上から犬が下りてきそうな気がして、もしくは下から上がってきそうな気がして、生きた心地がしなかった。
無事に三階に辿り着き、廊下を歩いて音楽準備室、第二音楽室と過ぎていく。窓から見える校庭はさっきより闇を濃くしている。駆け足で第一音楽室に向かい、ドアの鍵穴に鍵を挿そうとした時だった。
「鬼ごっこをしよう」
子どもの声が廊下に響いた。首を横に向けると、何故か音楽室の窓が開いていた。中から一匹の犬が首を出してこっちをじっと見ている。小さな頭の割に大きな耳、ちょこんと尖った鼻に顔から零れ落ちそうな黒い瞳。
「鬼ごっこをしよう」
チワワは真っ赤な舌をちょろりと出して、確かにそう言った。
最初のコメントを投稿しよう!