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 幸せ犬の姿を見ると、良いことが起こる。ただし、幸せ犬は放課後のチャイムが鳴った後にしか現れない。 「ほんとかよー」  恭介(きょうすけ)がそう言って笑うと、友人の真一(しんいち)は黒いランドセルを揺らしながら口を尖らせた。 「ただの噂だって。なあ、悠士(ゆうし)くん」  ひと学年上で六年生の悠士は、拾った枝でガードレールをかんかん叩きながら意地悪そうに笑った。 「恭介、怖がってんだろー。おまえ、寝る前に一人でトイレも行けないらしいじゃん」 「そうなの?」 「そんなわけねーし!」  同じ帰り道を歩く四年生の春貴(はるき)が驚いた顔をするのに、恭介は肩を小突く真似をする。放課後の通学路、同じ方角に家のある四人は、ふざけあって一緒に帰ることが多かった。開けた郊外の道は右手に田圃と畑が広がり、六月下旬の湿気が溜まっている。早くも蚊に刺された腕をぼりぼりかきながら、恭介は幸せ犬の姿を想像した。 「てか、幸せ犬って何犬(なにけん)? 誰か見たことあんの」 「そういえば、ゆきちゃんが見たんだって。あの、橋渡ったとこの」 「マジで?」  恭介の驚いた顔に、真一が頷いた。ゆきちゃんとは今年小学生になったばかりの女の子だ。前を歩く悠士が不審そうに首をひねる。 「でもゆきちゃんって一年だろ。なんでそんな時間まで学校にいるんだよ」 「知らないけど。見たって言ってただけ」 「……幸せ犬って、喋るんだよね。ゆきちゃんも聞いたのかな」  四年生の春貴が不安げな顔をした。彼は足を蚊に刺されたのか、片足でぴょんぴょん跳ねながら器用に左足をかいている。  幸せ犬は人間の言葉を話すらしい。それも一言、「鬼ごっこしよう」と。そんな学校の怪談らしいところが、恭介は気に入っていた。放課後だけに現れ、姿を見た者に幸福をもたらす喋る犬。是非とも見てみたいと心から思う。  打ち合わせたわけでもなく、四人は橋を渡り回り道をした。ゆきちゃんは、家の玄関先で友だちと縄跳びをしていた。 「しっぽがね、くるんってしたよ」 「くるん? それって柴犬とか? ゆきちゃん、何時ぐらいに見たの、あと学校のどこで見た?」 「恭介、食いつきすぎ」  諌める真一がゆっくり聞き出すに、ゆきちゃんはお母さんの懇談会が終わるのを待って、校舎を散歩していたという。普段はあまり用事のない二階が気になり、階段を上ってみると、左に折れる廊下の方から犬の茶色いお尻が見え、床に尻尾が垂れていたそうだ。 「あれ、ぜったいいぬだよ。にしざわのおばあちゃんちと、おんなじ色だったもん」  四人は揃って道の先に目をやった。この先にある西沢のおばあちゃんの家では、一匹の柴犬を飼っている。ゆきちゃんが幼稚園の頃からの仲良しだ。 「じゃあ、見間違いじゃなさそうだな」六年生の悠士が気取った仕草で顎を撫でた。「廊下から、伏せた柴犬が尻を出してたってことだな」 「ゆきがちかづいたら、くるんってしっぽまいてね、どっかいっちゃった」 「ゆきちゃん、追いかけたの」  春貴の問いかけに、彼女は黒い髪が揺れるほど大きく頷く。 「でも、いなかったよ。ゆき、すぐにはしったのにね、もういなかったの」 「その犬は喋った?」  だが、恭介の質問にはきょとんと目を丸くする。「いぬはしゃべらないよ?」そう言われて何だか恥ずかしくなった。 「おうちかえったらね、ケーキだった。おやつ。ふわふわの、いちごの!」  嬉しそうなゆきちゃんの良いことは、おやつのショートケーキだったらしい。
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