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三  二十一世紀も今年で二十一年目となる二〇二二年。  この年は、鈴鹿サーキットで行われる日本グランプリはだいぶ早く、十月九日に行われた。コロナ禍明け最初の大会で、実に三年ぶりだった。  もちろん私は現地観戦した。  そして、天皇賞・秋は全くかぶらなかったので、心置きなく現地観戦ができていた。秀行はコロナにかかっていて、軽症だが自宅待機を厳命されていた。当然だ。  私はホットコーヒーで、すっかり秋めいた府中のスタンドで冷えた体を温めながら、出走時間を待ち構えていた。  このレースの一番人気はイクイノックス。この年のクラシックレース(皐月賞・日本ダービー)無冠ではあるが、両方とも二着。キタサンブラックの産駒で、既に天才の名前を欲しいままにしている。このレースに勝てれば、おそらく彼の名声は磐石なものとなるだろう。  私も、イクイノックスを買わないわけにはいかなかったが、相手をどうしようか決めかねていた。こういうGIレースは、もはやお祭りである。どの馬が来てもおかしくはない。天皇賞に出られる時点で、名馬である。  去年のダービー馬、シャフリヤール。勝ち星の多いジャックドール。この辺は人気である。ドバイでGI馬の称号を得たパンサラッサは、人気が七番と低めであり、複勝を厚く張るならばアリだなと思うほどだった。  ひとまず、イクイノックスを軸にして三連複を五頭ほど流し、パンサラッサに複勝で一万円注ぎ込んでみた。  パンサラッサは去年の秋から大逃げに活路を見出すようになっていた。その走りが、アニメ『ウマ娘』のセカンドシーズンに登場して再注目されているツインターボを彷彿とさせることから、「令和のツインターボ」と呼ばれるようになっていた。    そんな馬が天皇賞・秋に出る。同じ逃げ馬で天皇賞・秋といえば、当然サイレンススズカが頭に浮かぶ。  最近は、やはりウマ娘の影響なのか、スズカやスペシャルウイークが随分とクローズアップされている。先程コーヒーを買った店も、ウマ娘のフィギュアがたくさん置かれてあった。私にはどれがどの馬をモチーフにしているのか見当もつかないが、おそらくファンならば全てわかるのだろう。かつての名馬が再注目されているのは、どんな形であれ嬉しいものだ。  そう思っていると、ファンファーレが鳴り響いた。  スタートと同時に、予想した通りパンサラッサが先行した。どれくらいの大逃げをかますのか、というのが楽しみだった。  ただ、私のその気持ちは、だんだんと不安に変わっていった。  余りにも早すぎるのだ。二着までの着差がどんどん開いていく。  電光掲示板を見た。カメラが思い切り引く。十何馬身もの差が付いていた。  それは、一度見ただけでもう見ることができなくなった、サイレンススズカの天皇賞・秋の光景を嫌でも思い出させるものだった。 「ぐっ……」  思わず胸を押さえた。秀行ほどではないにしても、私もスズカの非業の死にショックを受けた一人である。あのレースの映像がフラッシュバックしてきたのだ。 「千メートルの通過タイム、五十七秒四!」  実況の声が上擦っていた。観客席も、そのあまりのハイペースに更にどよめいた。このタイムは、まさにサイレンススズカの秋天千メートル通過タイムと全く同じだったのである。  まさか、また名馬が逝ってしまうのか。  私は、顔を上げることができなかった。馬場にある大ケヤキ。その向こう側をパンサラッサが走り抜けていけるとは思えず、見ていられなかった。  しかし、周りの歓声は全く止まない。  いや、むしろ益々加熱していた。  私は思わず顔を上げてしまった。  そこにいたのは、まだ凄まじいリードを保ったまま最後の直線に入った、パンサラッサの姿だった。  イクイノックスら二番手以降は、最後の直線に入り、徐々に差を縮めていった。  私は、あの日サイレンススズカで見る事が出来なかった景色を、パンサラッサが見せてくれているかのような、そんな気持ちになっていた。  もはや、胸の苦しさなどどこかに吹き飛んでいた。 「行け! 逃げきれ!」  私は思わず叫んでいた。  しかし、ここでイクイノックスが怒涛の追い上げで差を縮めてきた。ゴールに間に合うかどうか、全くわからない。  イクイノックスが差すか、パンサラッサが逃げ切るか。  そう思った時、イクイが抜いた。後続も追いついてきた……と思った時にゴールを通過した。    優勝はクリストフ・ルメール騎手の乗るイクイノックス。パンサラッサは二着になっていた。見事、馬群に沈む前にゴールできたと言える。  馬券に絡めていた訳だし、この結果は全く恥ではないと確信している。  それどころか、私は、この歳になるまで競馬を見続けていて、本当に良かったと思えたくらいだった。少なくとも今年最高の名勝負だったことに間違いは無い。 「いや〜、スズカみたいだったね」  と、言っている若い集団がいた。九八年当時のレースを生で見ていたはずが無いと思えるような年齢なのに、彼らですらスズカを知っていたことに、どこか嬉しくなった。    あの日の続きを見せてくれたパンサラッサに、私は心からの拍手を送った。      終わり
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