5. 名誉教授

1/1
前へ
/8ページ
次へ

5. 名誉教授

カウンターデスクに戻った。 濃紺の背広を着た紳士が美玲を待っていた。 「西海先生!」 硬直した結翔に、西海は穏やかな微笑みを向けた。 「やあ、相原くん。今日は孫に付き合ってくれてありがとう」 美玲には「学生さんのお仕事を邪魔してはいけないよ」と(さと)した。 その上で「『運命の一冊』はどうだったかな」と(たず)ねた。 ギャルと名誉教授。 不思議な組み合わせの二人が仲良く話していた。 美玲は母親が若い頃に生まれたため、西海は64歳にして既に高校生の祖父だと語った。 「じゃあもしかして、月瀬さんから授業のことを?」 「ああ、聞いたよ。なかなか苦戦しているようだね」 渋く落ち着いた声に包まれ、孤独感が和らぐのを感じた。 我慢していた不安が(あふ)れた。 「西海先生、助けてください」 突然の失礼を恥じたが、必死さが(まさ)った。 「自分は週明け、また実習に戻ります。『運命の一冊』をやり直すために、授業のアドバイスをくれませんか」 西海は柔和(にゅうわ)な笑顔で(うなず)いた。 「では、きみにとって『運命の一冊』とは何かな」 「え……」 「生徒に本を語らせる授業は、とても素晴らしいことだよ。本を読み、書き、話す。本の魅力を他者に理解させるという活動には、実に多様な力が求められる」 カウンターデスクで始まった西海のミニ講義。 結翔も美玲も、じっと耳を傾けた。 「生徒が活動につまずいたとき、そこに『気付き』があり、『学び』がある。そのために、教師にはどんな手伝いができるだろうか?」 「『問い』……ですか」 「その通り。私の授業をよく聞いているね」 西海の瞳が茶目っ気たっぷりに輝いた。 「生徒はきみに対して『読書なんてしない』と発言したそうだね。きみは、この言葉にどんな意味があると思った?」 「えっと……本が好きじゃない、とか?」 「うん、もう少し考えてみようか」 西海は隣に視線を投げ掛けた。 「美玲は分かっているね」 「うん」 言葉の裏側にある、意味。意図。背景。 想像する余裕を失っていた。 自分自身にショックを受けた。 「拒否的……素直な反応……読書は身近じゃない……」 ぶつぶつと呟くと、西海は「それで、それで?」と思考を促した。 「なぜ読まないのか……生徒にとって本とは……あっ」 はっとした。 「教師(自分)が『運命の一冊』を定義付けできていなかった?」 そう、と西海が頷いた。 「『運命の一冊』の(とら)え方が曖昧(あいまい)だった。『本』とは文学小説のことかな? エンタメはダメなのかな? 生徒は迷いが消えず、前向きになれなかったと私は推測しているよ」 「確かに……キャッチーな表現に甘えて、大切な説明を省いてしまいました。でも、そもそも『運命の一冊』って、本当に何だろう」 言語化できないなんて、情けない――。 うつむいた結翔に、西海は意外な提案をした。 「相原くん、明日の日曜日は空いてるかな」 「明日?」 「はい、シフトは休みです」 さりげなく背後で聞いていた島田が代わりに返事した。 「それならちょうどいい」 西海が目を細めた。 「特別授業をしよう。『運命の一冊』とはどんな本なのか、一緒に考えてみようじゃないか」
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加