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5. 名誉教授
カウンターデスクに戻った。
濃紺の背広を着た紳士が美玲を待っていた。
「西海先生!」
硬直した結翔に、西海は穏やかな微笑みを向けた。
「やあ、相原くん。今日は孫に付き合ってくれてありがとう」
美玲には「学生さんのお仕事を邪魔してはいけないよ」と諭した。
その上で「『運命の一冊』はどうだったかな」と尋ねた。
ギャルと名誉教授。
不思議な組み合わせの二人が仲良く話していた。
美玲は母親が若い頃に生まれたため、西海は64歳にして既に高校生の祖父だと語った。
「じゃあもしかして、月瀬さんから授業のことを?」
「ああ、聞いたよ。なかなか苦戦しているようだね」
渋く落ち着いた声に包まれ、孤独感が和らぐのを感じた。
我慢していた不安が溢れた。
「西海先生、助けてください」
突然の失礼を恥じたが、必死さが勝った。
「自分は週明け、また実習に戻ります。『運命の一冊』をやり直すために、授業のアドバイスをくれませんか」
西海は柔和な笑顔で頷いた。
「では、きみにとって『運命の一冊』とは何かな」
「え……」
「生徒に本を語らせる授業は、とても素晴らしいことだよ。本を読み、書き、話す。本の魅力を他者に理解させるという活動には、実に多様な力が求められる」
カウンターデスクで始まった西海のミニ講義。
結翔も美玲も、じっと耳を傾けた。
「生徒が活動につまずいたとき、そこに『気付き』があり、『学び』がある。そのために、教師にはどんな手伝いができるだろうか?」
「『問い』……ですか」
「その通り。私の授業をよく聞いているね」
西海の瞳が茶目っ気たっぷりに輝いた。
「生徒はきみに対して『読書なんてしない』と発言したそうだね。きみは、この言葉にどんな意味があると思った?」
「えっと……本が好きじゃない、とか?」
「うん、もう少し考えてみようか」
西海は隣に視線を投げ掛けた。
「美玲は分かっているね」
「うん」
言葉の裏側にある、意味。意図。背景。
想像する余裕を失っていた。
自分自身にショックを受けた。
「拒否的……素直な反応……読書は身近じゃない……」
ぶつぶつと呟くと、西海は「それで、それで?」と思考を促した。
「なぜ読まないのか……生徒にとって本とは……あっ」
はっとした。
「教師が『運命の一冊』を定義付けできていなかった?」
そう、と西海が頷いた。
「『運命の一冊』の捉え方が曖昧だった。『本』とは文学小説のことかな? エンタメはダメなのかな? 生徒は迷いが消えず、前向きになれなかったと私は推測しているよ」
「確かに……キャッチーな表現に甘えて、大切な説明を省いてしまいました。でも、そもそも『運命の一冊』って、本当に何だろう」
言語化できないなんて、情けない――。
うつむいた結翔に、西海は意外な提案をした。
「相原くん、明日の日曜日は空いてるかな」
「明日?」
「はい、シフトは休みです」
さりげなく背後で聞いていた島田が代わりに返事した。
「それならちょうどいい」
西海が目を細めた。
「特別授業をしよう。『運命の一冊』とはどんな本なのか、一緒に考えてみようじゃないか」
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