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4. 書庫
渡り廊下に、スニーカーとローファーの靴音が響いた。
美玲から「先生の『運命の一冊』を知りたい」と言われた。
断っても引き下がる様子はなく、結局、結翔が根負けした。
案内したのは学術的な雑誌や資料がそろう別館書庫。
誰もいない空間に、上質な静寂が広がっていた。
黄ばんだ紙のにおいと、清潔なシャンプーの香りが重なった。
「ここに来るのは初めて?」
「うん。図書館自体は3回目だけど――わあ、すごい」
並ぶのは横4m、高さ2.3mもの本棚が連なる移動式書架。
ボタン操作で一斉に動くその迫力に、美玲は声を弾ませた。
結翔は書架(本棚)の一つに歩み寄り、【375.9】の請求記号ラベルが貼られた本を手に取った。
「それ……教科書?」
「中3のとき、落書きされてね」
結翔は目次のページを優しく撫でた。
図書館が保管する教科書は新品同様で、無言の余白に守られていた。
当時の休み時間に気付いた、誰かの荒々しい筆跡を思い出す。
ウザい、真面目、優等生――。
同級生を軽蔑した。紙の弱さを知った。
「紙じゃなくて電子書籍だったら、あんな思いをしなくて済んだのかな」
弱々しく微笑んだ。
「紙だから汚れる。傷つく。戻らない。心も一緒。そんな当たり前のことが、教師を目指すきっかけになった。おれにとって大事な、運命の一冊」
教科書を閉じて、慣れた手つきで書架に戻す。
「おれの話は終わり。月瀬さんは、本と素敵な出会いができるといいね」
書架に背を向け、渡り廊下に出ようとした。
「待って」
美玲が呼び止めた。
「先生、違うの。わたし、本当は」
唇をぎゅっと噛み締めていた。
桜色のリップはすっかり落ち、くすんだ秋の夕空色に変わっていた。
「『運命の一冊』にもう、出会ってるの」
「もう、出会ってる?」
結翔は美玲の言葉を反芻した。
美玲は床に視線を落とした。
「『スターガール』って本、知ってる?」
「ジェリー・スピネッリの小説か」
絵の具の原液を思わせる、ライトブルーの表紙が脳裏に浮かんだ。
「英米文学の書架にある。案内しようか?」
「ううん、大丈夫。もう、持ってる」
バッグから取り出したのはまさにその、水色の本だった。
「おじいちゃんが買ってくれたんだ」
疑問が晴れなくて、結翔の眉間が寄った。
「それなら、どうして新しい本を探しに?」
「それは――」
今度は美玲の形の整った眉が歪んだ。
「わたしの本も、傷つけられたからだよ」
パラパラとページをめくった。
主人公が、風変わりな女の子・スターガールに冷たい言葉を浴びせてしまう場面。
スターガールの意味深なセリフが載った、裏表紙のそで部分。
それぞれ、誰かに力ずくで破かれていた。
「これは――」
言葉を失った。
応急処置として貼ったメンディングテープの下で、裂けた紙が泣いていた。
美玲は「わたしも中3の時に」と語った。
「先生に訴えたら、逆にわたしの方が教室で浮いちゃった。理不尽じゃない?」
「それでギャルに?」
「自分が自分の一番の味方になろうって決めたの。だったらスターガールみたいに、自由にオシャレした方がハッピーじゃん」
プリーツのミニスカートが寂しげに揺れた。
「それで図書館で新しい出会いがあったらいいなと思って、カードを借りて通ってたの」
まさか先生に会うなんて、と呟いた。
「わたしの本と先生の教科書、お友達になれそうだね」
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