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怒りと理性の狭間
バスルームに立てこもったバートは、戸板に背を預けたままタイル床に座り込み、頭を抱えていた。
キャロラインは無理に突入をはかることもなく、ドアの向こうから少しの間声をかけてきていたが、諦めたのか今はもう静かになっている。
バートとしては、もし薬のせいで体調に変化があれば、自分を殴って昏倒させてでも意に染まぬ行動を阻止する所存ではあった。だが、そもそも現実的にいつまでも立てこもっていられないことには気づいている。ぐずぐずしていないで、脱出をはかるべきなのだ。
しかし、強引にこの場を離れることが果たして問題の解決になるかといえば、おそらくそうはならないことも知っている。
(意識を失って運び込まれてから、この部屋で時間を過ごした事実はもう消せない……。もしこの後キャロラインさんが妊娠した場合、俺の子と言われてしまえばいくら俺が「その事実はない」と言い張っても、否定しきるのは難しい)
公爵家の跡目争いで有利になるよう、キャロラインやギデオンがバートの子を得たと喧伝すること自体は、バートにとってはさほどの痛手ではない。
気がかりなのは、コーデリアのことだ。表面上は気にしていないと言ってくれるかもしれないが、婚約者が他所に子どもをもうけたかもしれないという疑惑は、不信の芽となって心に巣食い、後々大きくのしかかってくる恐れがある。
事実ではなくとも、バートにはそれを証明する手立てがないからだ。
(事件の被害者になるというのは、そういうことだ。一番悪いのは、ひとの意思を無視して陰謀を企てたギデオン叔父の振る舞いだが、俺は俺でこの事態を招いた自分の油断をずっと後悔することになるだろう。そして、忘れよう、無関係でいようと思っても、どこかで「俺の子を名乗る子が生きている」ということは、それだけでコーデリアや、これから生まれてくるかもしれない子どもたち、家族を苦しめる。どれほど愛情を注いだとしても「被害」がもたらす心の傷は完治することなく、ふとした瞬間に痛みをともなってよみがえる……)
もし立場が逆で囚われたのがコーデリアであれば、「無理をしないで自分が助かることだけを考えろ」と言う。コーデリアが自分のもとに戻ってくることだけがすべてだと、素直に思う。
一方で、バートは自分がひ弱でも無力でもないことも自覚している。
戦闘職で魔力もあり、いま現在狙われているものは貞操であって命ではない。ギデオン側としては、懐柔できるのであればしたい、という思惑はあるはず。つまり話し合いの余地はある。
(自分の欲望のままに策略を巡らせ、他人を巻き添えにした加害者に対して、被害者から交渉を試みなければならないって、理不尽極まりないんだけど……。大体にして「犯罪」というのはそういう構図だ。だけど俺は、決して弱者じゃない。いっそこの被害から利益を得る立ち回りをして、完全なる強者になる手段こそ考えるべきなのでは?)
その道筋は、見えてはいるのだ。
実行すれば今まで通りの生活には戻れない。暮らしていた国には戻れず、キャロラインに「荷が重い」「無理」と言われた道を歩むことになる。
理屈としては簡単なこと。
従姉との間に子をもうけて次代に託すなど悠長なことをせず、「自分こそが正当なる公爵家の後継者なのだ」と名乗りを上げ、他の候補者及びギデオンを退ける、というのは。
バートは、逃げも隠れもしないことで、他人の指図を受けることなく堂々と結婚したい相手と結婚し、着実に人生を歩んでいくことができる。
そのためににはギデオンの企てを乗っ取り、跡目争いに積極的に参戦して勝ち、オルブライト公爵となるのが一番だ。
「野心で身を滅ぼすほど馬鹿じゃないつもりだったけど、まったく野心が無いかと言えば嘘になる」
思わず言葉に出して呟き、口の端に笑みを浮かべた。
欲を出せば必ず失敗する。そう思って、身の丈以上のことは望まずに生きてきたが、努力や工夫で手に入るかもしれない位置に権力や財産をぶら下げられたとき、無欲なふりをして背を向けることが果たしてどれほど優れた判断なのだろうか?
メイドであった母が、公爵のお手つきとなったことで散々夫人たちにいじめられ、幼いバートを連れて逃げるように国を出たことは覚えているのだ。
その公爵家に、自分から関わりに行くことなど無いと思って生きてきた。
だけど、結局向こうから来てしまったのだ。意思のすべてを無視した、暴力の形となって。
ここで何一つやり返すことなく逃げてしまえば、痛い思いをしないで済んだ連中はいつまでも同じことを繰り返すのではないだろうか。
であれば、自分がそれを止めるのは自然なことではないか?
(……俺はきっといま怒っている。とても怒っている。だから、怒りのままに相手にやり返すことを正当化しようとしている。自分は正しくて、悪いのは相手なのだから、相手を踏みにじるのは正義なのだと、信じ込もうとしている。違う、そうじゃない。もう少し冷静になろう。相手と話し合って解決までもっていくつもりなら、怒りを原動力にしてはいけない)
ふっと気を抜いた瞬間、体が火照っているような妙な感覚があって(まずい、薬かな)と思いながらバートは右手の甲に左手で爪を立て、痛みで意識を逸らそうとした。
怒りのような強い感情は、理性を飛ばすきっかけになりかねない、と自制する。
いよいよとなったら、バングルに魔力を通して、魔力枯渇で倒れるまでコーデリアと話そう。声を聞こう。
そう思いながら爪に力を込める。手の甲にはじわりと赤く、血が滲んでいた。
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