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まだ置き場所を決めていない、真新しい鍵の付いたキーホルダーを握りしめたままリビングダイニングに入れば、これまた真新しいダイニングテーブルの上にソレは置かれていた。
この部屋に引っ越してきたのは二週間ほど前。
見慣れぬ部屋に見慣れぬ街並み、見慣れぬ最寄りの駅に、見慣れぬ陳列棚が並ぶ駅ビルの本屋。
それらを一つ一つ確認するように眺めながら帰宅して、見慣れぬ部屋の玄関を開けて進む。
ただいまと小さく呟いた声に、応えはなかった。
そしてリビング兼ダイニングになっている、一番広い部屋に入った時、視線は吸い寄せられるようにダイニングテーブルの上に置かれていた一冊の本へと向かう。
自他共に認める活字中毒であるわたしを惹き寄せる罠としては充分な効果を発揮したその本は、泣きたくなる程の懐かしさを感じる夕日色の表紙をしていた。
茜空を切り裂くように一筋の白が流れていて、その白はまるで雲のようにも……羽のようにも見えた。
何となく逸る心を抑えて、握りしめたままだったキーホルダーをダイニングテーブルに放つ。
自由になったわたしの手は、そっとその本を持ち上げて、開く。
逸る心のまま視線を動かして、ページをめくって。
いつしかわたしの脳裏には、懐かしい記憶が蘇っていた。
「……この本、何処にある?」
大事な読書タイムを邪魔したその声に、一瞬だけ浮かんだ腹立たしさをなんとか押し込めて見上げた先にいたのは、ちょっと意外な人物だった。
とある地方都市にある、歴史だけは長い高校。
そこの生徒だったわたしは、大多数の人間は避けて通ると言われている図書委員の、これまた押し付け合いが発生するカウンター当番を嬉々として引き受けていた。
だって、ここに居れば本が読み放題なんだから。
近くに大きく建て直した市立図書館があるからか、この図書室にわざわざ足を運ぶ生徒は少ない。
だからこそ、図書委員もカウンター当番も不人気な訳だが。
わたしに言わせれば、無駄に長い歴史を誇るこの学校の蔵書量はなかなかのもので、活字中毒者にとっては天国そのものだった。
カウンター当番だって本来は本の貸出や借りられていた本を棚に戻す作業をする為のものだが、人が来なければその作業は発生しない。
一応下校時間までとなっているカウンター当番の時間は、わたしの有意義な読書タイムとして日々消費されていた。
だからこそ。
誰も来ないはずの図書室に人が来た事に驚きを隠せないし、その人物が本の虫であるわたしでも知ってるくらいある意味有名な人物だった訳だから、驚きも一入だった。
キラキラした金髪に染められた髪は、前髪だけ少し長めで横に流されていて、スッキリと短く整えられたサイドからは、ピアスが何個か付けられた形の良い耳朶がのぞいていて。
それら全部が違和感なく存在できる整った顔立ちも相まって、とても、そうとても有名人だった。
そんな彼の名前は確か……。
「なぁ? 聞いてんの? この本あるかって聞いてんだけど?」
どうやらじっと見つめ過ぎたらしい。
苛立ち……ではないが、なんらかの感情を秘めた顔が僅かに歪み、わたしの方に突き出されていた腕が、さらにわたしとの距離を詰める。
「……えーっと、少々お待ちください?」
突き出された手の指先に挟まっていた紙片を受け取り、折り目の付いた紙を覗き込めば、そこには走り書きのような文字で、一冊の本の名前が記されていた。
何処か見覚えのあるその筆跡に僅かに引っ掛かりを覚えながら、カウンターに置かれている在庫管理用のパソコンに指を走らせる。
「……あー」
「なんだよ? ねぇの?」
わたしの思わず出てしまった微妙な反応に、目の前の人物が僅かに眉を顰めた。
「あ、いえ。あるにはあるんですが、書庫の方に仕舞われてまして……。
わかりにくいんで案内しますね」
そう伝えて、本の仕舞われてる棚の情報をメモに取る。
そして……。
「みやびちゃーん? ちょっと書庫の方案内してくるからー。カウンターよろしくねー」
「はぁいー。って、誰も来やしないから大丈夫よぉ」
司書室の方に声を掛ければ、この図書室専属司書とは思えない答えが返ってきた。
「コラァ! 社会人! お給料貰ってるんだからちゃんとお仕事してくださーい」
「してるしてるー」
カタカタとこれ見よがしにパソコンのキーボードを叩く音がする。
「ホントー? 前みたいに原稿描いてたりしないー?」
「してないしてない! ほら、生徒さん待ってるんでしょ? 美羽ちゃん早く案内してあげてー」
呑気なみやびちゃんの台詞に、呆れのため息を吐きつつも、そう言えば先輩待たせてたんだったと振り返れば、そこには何故かコテリと首を傾げている人がいた。
「……何か?」
「いや、美羽ちゃんて言うんだなぁと思って……」
何やら大きな手のひらで口元を隠す、目の前の先輩。
そう、彼は三年生で、二年生のわたしから見れば確かに先輩だった。……はずなのに、何故か憎まれ口が口を吐いた。
「……似合いませんよね? 『美しい羽』だなんて。
地味なメガネ女には不釣り合いな……「そんなことないよ?!」……はぁ……?」
結構な勢いで否定されて、何故かネガティブに寄った精神状態も元に戻る。
チラリと視線を上げれば、そこには真剣な表情の先輩がいて。
吸い込まれそうな程黒い瞳にじっと見つめられて……。
何故か胸の奥がざわりと揺れた。
「……っ! と、とりあえず書庫にご案内しますね?
こ、こちらですっ!」
大袈裟だし、自意識過剰甚だしいけど、何故かあのままだと先輩に囚われてしまいそうで、慌てて踵を返す。
書庫に向かって足早に歩みを進めれば、何歩か距離を空けて着いてくる人の気配がした。
「はい。ではこちらの本の貸出手続きをしますので、学生証を読み取らせてください」
書庫に向かってすぐに目的の本は探し出せた。
古くて重たくて僅かに埃っぽいその本は、文学集の一冊目だった。
借りていくとの事だったので、二人でカウンターに戻れば、案の定と言うか何と言うか、みやびちゃんは司書室に引っ込んだままだった。社会人仕事しろ。
ふぅとため息を一つ吐いてカウンターの中へ入る。
差し出された学生証を読み込んで、本一冊毎に付けられているバーコードも読み込む。
これで貸出手続きは完了だ。
ページが破れていないか確認する為、本をパラパラとめくっていく。
古い本なので、最後のページには貸出カードを入れておく紙のポケットが付いていた。
昔はこのポケットにしまわれていた貸出カードに借りていく人の名前を手書きしていたらしい。
だから、自分の前にどんな人が借りているかわかったそうだ。
それが出会いのきっかけになる事を、わたしはアニメ映画のシーンでしか知らないが、随分とロマンチック……なのだろうか?
そんな詮無い事を考えながら、パソコンのモニタに視線を投げると、そこには目の前の先輩の名前が表示されていた。
「あ……」
思わずと声に出たのを目の前の人物は耳聡く拾ったらしい。
「ん? どした?」
「あ、いや、先輩の名字、みやびちゃんと一緒だなと思って……」
西澤秋人。
画面に記された名字は、未だ司書室から出てくる気配もないおサボり司書、西澤雅ちゃんと同じものだった。
「あぁ、そりゃそうだよ。だって姉だし」
「……先輩が、みやびちゃんのお姉さん?」
随分ズレた答えを出したことに気づいたのは、「そんなわけあるかーい」と、目の前と司書室から同時にツッコミが入ってからだった。
ていうかみやびちゃん、聞き耳立ててたんかい……。
その日から、何故か先輩との交流が始まった。
「……もうすぐ卒業ですね」
無意識に零れたその言葉は、夕日の名残を色濃く残して茜色に染まったその部屋で、余韻と共に消えていく……はずだった。
「……だな」
二人で図書室の窓から外を眺めるこの時間が特別なものになったのはいつからだろう。
この場所で本を読むこと以外に意義を見出すようになったのも。
それもこれも……
ふと隣に立つ先輩を見上げる。成長期を終えていた高校生では、二人の距離は縮まる事なんてなくて。
……それは身長差だけだろうか?
意外な事に……と言っては失礼だが、派手な外見とは裏腹に読書家の先輩は、本の趣味も似ていたので話があった。
お互いが読んだことのある本の内容を語り合うのは楽しかったし、お互い読んだことのない本を紹介し合うのも……楽しかった。自惚れでなければ先輩も……。
見上げた先にあった相変わらず整った顔立ちが夕日に染まって、本来黒目がちな瞳がキラキラと朱く輝いて見えたのは気のせいだったか。
「……なぁ」
ふっと視線がそらされ、眩し気に目を眇めて窓の外を眺める先輩が、こちらを見ずに口を開いた……が、一体何を躊躇しているのか、続きの言葉は待てど暮らせど訪れない。
「……なんですか? 先輩」
「……実は……この図書室に来たのって、美羽と……いや、美羽に俺を知ってもらいたかったからだって言ったらどうする……?」
いつも自信満々に振舞っている、陽キャの権化のような人が、僅かに瞳を揺らしながらわたしを見る。見ている。
その事実は、否応もなくわたしの鼓動を早めていって。
「……知って……いたのかもしれません」
夕日のせいなのか、先輩の瞳に込められた熱に焼き尽くされそうな気がして、思わず目を逸らす。
だけど……先輩の言葉は、わたしの疑問を解消するもの……だったから。
「……なんて?」
ものすごく動揺した先輩の声が、誰もいない図書室に響く。
本来いなきゃいけないみやびちゃんは、職員会議だーとぼやきながら、嫌々部屋を後にしていた。
「だから……なんとなく目的が、わたしに思うとこあって……先輩はここに来たのかなぁって」
思ってましたよ? って先輩を見上げれば、夕日のせいじゃなくて顔を茜色に染める先輩がいて。
つられてわたしの頬も熱を帯びる。
「な……なんで……いつ……から……?」
滅茶苦茶動揺する先輩を見て、今度はすっと落ち着いた。相手が動揺すると自分は冷静になるというのは本当だったらしい。
「いつからは……最初から……ですかね?
先輩が最初に来た時持ってきた、本の名前の書かれたメモ、あれはみやびちゃんが書いたものですよね?」
そう促せば、顔の下半分を自らの大きな手のひらで覆い隠した先輩が、小さな子のようにこくりと頷いた。
「だから……変だなって。
そもそもみやびちゃんの弟なら、みやびちゃんに聞けば本の場所なんてすぐわかりますし、司書が管理する権限があれば、本人不在でも貸し出しが可能ですし……だから、図書室に用があるのかなって。
先輩はいつも人に囲まれてるから、誰にも干渉されない落ち着く時間が欲しいのかなっとも思ったんですが、それだったらわざわざわたしに話しかける必要もないし……」
不思議でしたと告げれば、今度はしゃがみ込んでしまった。
先輩のつむじを眺めつつ、ちらりと窓の外に視線を流せば、そこは夕闇が迫っていた。
「……うわぁ、ハズい……。最初からシタゴコロばればれとか……」
いっそ殺せと呟く先輩の前に、同じようにしゃがみ込んで、俯いた顔を覗き込む。
未だ真っ赤なその顔を、何故か美しいと思いながら、その頬の熱を奪い去りたいと手を伸ばせば、びくりと先輩の身体が大きく震えた。だけど嫌そうでもなくて、逃げようとする気配もなくて、わたしはますます調子に乗ってしまう。
「……先輩は、わたしと仲良くなりたかったんですか?」
すりすりと肌理細やかな頬をなぞりながら訊ねる。だってわたしは自他共に認める地味オンナだもの。確信が、保険が欲しい。
「っ! ――――っ! っそうだよっ! 俺はっ! 君と話したかったっ! 仲良くなりたかったっ! あわよくばだって考えてたよっ!」
可愛い……と心が震える。
そのまま深く堕とされて、もう逃げられない。
だけどまだダメ。まだ足りない。だから先輩も……わたしのとこまで堕ちてきて?
「それは……あわよくばわたしとこういうことをしたかったって事で……合ってます?」
答えも聞かず
頬に添えていた手に力を込めて
先輩のちょっと薄めで色素も薄い唇を
自分ので塞ぐ
勢いがつき過ぎたのか、後ろに倒れ込みそうになった先輩が、後ろ手に自分の身体を支えるのを見止めて、これなら安心と思い切りしなだれかかる。
突き飛ばされないのを良い事に、ぺろりと舌先で先輩の唇に触れて、驚いて先輩が口を開けた隙をついて自分の舌をねじ込む。
窓から薄闇が覗いても、部屋の蛍光灯が白々と誰もいない図書室を照らし続けて、水分取り扱い注意の図書室でくちゅくちゅと柔らかな粘りの籠った水音が響く。
しばらくして、カクンと腕の力が抜けたらしい先輩が床の上に倒れ込んだ。
寄りかかってたわたしももちろん、そのまま倒れ込んで、傍から見れば先輩を押し倒して口づけを奪っている痴女の如くだろう。
……まぁ、だいたいあってる訳だが。
少しだけ息苦しそうなそぶりを見せ始めた先輩の下唇を軽く吸って甘噛みして……名残惜し気にちゅっと軽い擦過音を立てながら距離を取る。
先輩を押し倒した状態で先輩の顔を見てみれば、先程の夕日も驚くほどに紅潮した先輩が、潤んだ目でこちらを見ていた。
「はっ……み、美羽ちゃん?! なんか君慣れてる?!」
若干涙目の先輩を可愛いと思って、衝動的に頭を撫でてしまう。だけど不名誉な誤解は解いておくに限る。
「……いえ? 今のがハジメテでしたが?」
「マジで?! じゃななんであんな……」
ごにょごにょと何か言いかける先輩の頭を撫でていた手を耳朶に伸ばす。
「先輩? 大体の事は本に書いてありますよ?」
「それだけでっ!? それだけであんな?! ていうか待ってっ! 耳触んないで?! なんかぞわぞわするぅ!!」
こしょりと冷えた耳たぶを摘まんで、耳たぶの裏のくぼみに指先を這わせていたら、思い切り止められた。
何せ両手で捕まれたから、恐らく本気の制止だろう。
しょうがない、この辺りの実戦は追々だ。
「なんか怖い事考えてるでしょ?!」
「……いいえ?」
別に……と嘯いてみても、どうやら信じてくれないらしい。それでもさっきからわたしの手を掴んで離さないあたり、先輩は可愛い人だ。
すっかり闇に沈んだ窓に背を向けて、ふたり床に座り込む。
冬服の厚い生地越しとは言え、先輩の肩から腕が、ピタリとくっ付いて。恋人繋ぎにした手は先輩の太腿の上に。
そしてぽつりぽつりと語られたのは、先輩のココロだった。
陽キャだなんだと持ち上げられがちだが、実は本が好きな事。
本好きが高じて自分でも書くようになった事。
でも本が好きで読む事も書く事も誰にも告げられず、鬱屈した気持ちを抱えていた事。
お姉さんであるみやびちゃんから、本の虫であるわたしの話を聞いていた事。
学校で本を読むわたしの様子を見て、いつか自分が書いたものを読んで欲しいと思った事。
そんなことを一つ一つ噛みしめるように語る先輩を、わたしは一つ一つ心に積み上げる。でも……。
「……わたし、先輩がお話を書くって事知りませんでしたよ?」
コテリと首を傾げてみれば、再び手のひらで顔半分を覆う先輩。隙間から覗く頬や、むき出しの耳が赤い辺り、どうやら照れているらしいと察する。
……そう言えば初めてこの図書室で話した時も、先輩はこの体勢になっていて……。
「それは……君と話すようになって……もっともっとって欲が出ちゃったんだ。
君に凄いと、面白いと思ってもらえるものを書きたいって。だけど受験生だったし満足いくものもなかなか書けないし……」
しょんぼりする先輩の頭を、繋いでない方の手で撫でる。
「……いつか、見せてくださいね? わたしも……先輩の書いた世界を見てみたい……です」
「あぁ、いつか必ず、俺の本を一番に贈るよ。何せ君は俺の書きたい欲を掻き立てる存在だから。
一生側にいて……」
それってなんかプロポーズみたいですねって告げた時の先輩の顔は……夕日みたいに朱かった。
パラリと最後のページをめくる。
本を読み進めるに従って昂っていた感情は、裏表紙の見返しに書かれた手書きの文字によって決壊する。
『最初の一冊を、最愛の妻、美羽に贈る』
ポロリと頬を伝って落ちていく水滴が本に付かないように、慌てて本をダイニングテーブルに戻す。
ふたりで選んだ濃いブラウンの木目に、茜色の本が映える。
もう一度裏表紙を開いて、もう見慣れた文字をなぞるように指を動かして……。
ふわりと揺れる空気と共に、背中が温かいぬくもりに覆われた。
肩から回された腕が、そのまま茜色の本を取り上げる。
「プロポーズにも、入籍日にも間に合わなかったんだけど……」
やっと君に贈れる。
高校の頃からあまり変わらない二人の身長差を見越して、慣れた形で頭上にある先輩の、わたしの最愛の旦那様の顔を仰ぎ見る。
「……嬉しい」
昂った感情のまま、涙混じりのわたしの言葉に、ふわりと微笑んで。
わたしの先輩だった、つい二週間前に私の旦那様になった秋人さんは、わたしにそっと口付けた。
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