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『仕事なのに……』37
男に気を取られている間に用意が整ったらしく、カンパ~イ! と陽気な声でグラスを近づけてくる。カウンターへ伸ばした腕を戻し、緊張した喉を一口の水割りで潤す。コップを置きかけたが、そのまま一気に飲み干した。居心地の悪さを取り払うには早く酔っ払うしかなかった。
長く感じる半時間が過ぎると、男が女のリクエストに応えてカラオケを歌い出した。意外にも最近のヒット曲を選曲していた。夜に遊び慣れている感じで上手かった。女が上機嫌で拍手をする。男は第一印象とは打って変わり、初めて愛嬌のある笑みを零した。九時半過ぎに男が席を立った。僕もそろそろ帰ろうと思い、腰を上げた。女が男の勘定を右手で計算し、下を向いたままの姿勢で左手を突き出し、僕を制止した。僕は気孔で押しつけられたように腰を落とした。
「別々のお客が一緒に帰ったりすれば、閑古鳥が鳴くじゃない」
女が向けた表情は言葉で聞くよりもやわらかな笑顔だ。僕の返事が薄れて消えた。女が男の見送りでお店を出て行った。自分で水割りを作り、時間をつぶしていた。一人でカラオケを歌う気にはとてもなれない。五分が過ぎてもなかなか帰って来なかった。僕はどうしていいのかわからず、その場で釘付けになっていた。
少し不安になった。
やっと扉が開き、ふぅ~、と大きなため息を引き連れて女が戻って来た。女の口紅は消えていた。女が飲み手のいないグラスを片付け、カウンターを挟まず左隣に座り、自分の水割りを作り直した。仕切り直しでもう一度乾杯の儀式を終えると、同時に謝った。
「今日は一人だから、ちゃんと相手ができなくてごめんねぇ」
僕は声も出さずに顔を横に振った。
「優しいのね」
女がそっと微笑んだ。
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