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七十代くらいだろうか。
カウンターの椅子に姿勢を正して座る男は、白いカッターシャツとグレーのスラックスで、温泉場には不釣り合いな出立ちだ。
三上が椅子に腰を下ろし、視界の端で男を捉えていると
「お一人ですか?」
男が三上に顔を向けた。
目尻に細かな皺を寄せて微笑んでいる。
やさしそうな老紳士は、あまり行かなかった大学の、経営戦略論の先生に似ていた。大学の授業は、ほぼサボって代返でしのいでいたが、その先生は好きで珍しく熱心に受講した。P・F・ドラッカーに心酔している先生だった。
「あ、はい」
「そうですか。なかなか趣がある街ですね、ここは」
「ええ、そう思います。いつかプライベートで来てみたいもんです」
「あ、では、お仕事で」
「ええまあ……そんなところです」
老紳士はニコリと頷いて、カウンターに顔を戻した。
しばらくそれぞれで飲んでいると、テレビの音が聞こえてきた。
『日航機墜落から三十八年。本日は四年ぶりに、ご遺族が慰霊の登山を行いました』
店の右奥の天井近くに備え付けたテレビからだ。
三上は梅酒を飲みながら何気なく目をやった。
画面では、数えきれないほどたくさんの火がついたロウソクの前で、黒い半袖のワンピースの女性が膝を折って手を合わせていた。
「慰霊登山が再開できてなによりです」
老紳士がテレビに顔を向けながら、ひとりごとのように呟いた。
三上はつい、老紳士に話しかけた。
「この事故はたしか……数百名が犠牲になったんですよね」
「五百二十名が犠牲になりました。あのロウソクも520本です」
テレビを見たまま老紳士が答える。
「五百二十名……」
あらためて聞くと、大変な人数だ。
「御巣鷹の尾根は、ここから二時間ほどですよ」
「あ……」
そうか、とはっとした。
密会のスクープで頭が一杯だったせいで、航空機事故のことはまったく頭になかった。
しかし、自分がいるのは墜落現場からそう遠くない。
しかも偶然にも、この日は八月十二日。事故の当日だった。
三十八年前の一九八五年は、自分はまだ二歳だ。
世界の航空機事故史上最悪の事故だったことは、なんとなく知っていたが、正直あまり関心がなかった。
「たしか事故の原因は、機体のトラブルでしたか……うろ覚えですけど」
「公式見解ではそうですね。整備ミスによる圧力隔壁の故障が原因だと」
老紳士がテレビから三上の方に顔を向けた。
公式見解では、と含みのある言い回しが気になった。
「……といいますと、他に原因があるんですか?」
老紳士が右手のお猪口に目を落としながら
「事故ではなくて事件だったという説があります」
ぐいっとお猪口を傾けた。
「事故じゃなくて、事件?」
意味を測りかねた。
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