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その翌日から、彼女のバイトの送り迎えをする事になった。
俺と彼女のシフトが被ってしまって行けない日には友達やバイト先の人に頼んで、とにかく一人にならないようにと細心の注意を払ってもらいながら日々を送る中、俺と彼女は必然的にほぼ毎日、顔を合わす事になった。
とは言っても本当に帰路を辿るだけの二十分程度の事だけれど。離れるのが名残惜しく何度か家に誘ってみようとしたけれど、ただでさえあのレンタルショップの男に尾行されているかもしれないという恐怖を抱えているのに、浮ついた気持ちを丸出しにしたような誘いを切り出せるわけもなく、あっという間に一週間という月日が経とうとしていた。
もう本格的な梅雨入りを迎えた世界には今日も曇天の空が広がっていた。
「遊びに誘うのはアリかな……」
バイトの休憩室。パンを片手にスマホと睨めっこしながら独りごつ。
あの日以来、帰路を共にするということ以外に特に進展がない彼女との関係をどうにか進めたいという思いが日に日に増してきていた。
“気になっている”とは伝え合ったものの、それがイコール告白という事にならないくらいはさすがに恋愛経験のない俺でも分かる事だった。もう既に自分の気持ちは固まっているのだから、彼女にその思いを告げたい。けれど何か切っ掛けがない限りは言い出せないというジレンマを抱えていた。
きっと柴田に言うと意気地がないと言われそうだけど、こういう恋愛事に対しては全くと言っていいほどに耐性がないのだから許して欲しい。
【今度、遊びに行かない?】
打ち込んだ文章を数分見つめ、考えあぐねた結果、削除ボタンを連打する。
【今日のバイト22時終わりだよね?その頃にはそっちに迎えに行くから】
代わりに並べたのは当たり障りのない文章だった。今度は迷うことなくすぐさま送信ボタンを押す。送信されたメッセージを見ては、はぁっと脱力したように溜め息を零した。
その後もバイトの業務を熟しながらも頭の中は彼女をどうやってデートに誘うか、誘えたとしてもプランはどうするか、そんな事で埋め尽くされていた。
そしてそれはバイトを終え、暗くなった夜道を歩いていた時も変わらなかった。
ぼうっと考え事をしていた所為か、全く気づかなかった。
誰かに着けられている事に。静寂に包まれている夜道に、こちらに近づいてくる足音が迫ってきている事に。
「───っ!」
突然、グッと後方に力が加わる。着ていたトップスのフード部分が何者かに引っ張られたのだという事に気づいたのは、振り向いた後だった。そして顔を向けた先に居たのは、彼女を尾行しているであろう、あの男だったというのだから、目を見開く程に驚いた。
人は本当に驚愕した時、声を出せないものなんだとこの時に痛感した。
彼女と一緒に居る時に目撃した以来、この男を見かける事はなかった。それは彼女も同様だった。もちろんレンタルショップにも姿を現す事はなかった。
だから完全に油断していた。俺の静かな牽制が届き、諦めたのだとばかり思っていたから、まさかこんな風に接触を測ってくるだなんて思ってもみなかった。
「……ぁ、……ぁ」
「…っ」
長く、縮れた前髪から覗く瞳は虚ろでいて真っ黒で、何かを言おうとしているのかパクパクと口を動かしながら呻き声のような音を紡ぐ様は不気味としか言いようがなかった。
「──離せよ!」
バッと腕を大きく振り、抵抗すると重そうな男の身体は意外にも呆気なく傾き、そのまま尻餅をつくような体勢で地面に転げ落ちた。「ぐぅッ」という間抜けな声を上げ、強打したであろう腰の当たりを手で押えるそいつを横目で捉えつつも、何かを考える前に俺はそこから勢いよく走り去った。
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