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「───ッはぁ、はぁ……っ」
こんなに全力で走ったのはいつぶりだろう。
俺が漸く足の速度を緩めたのは、彼女のバイト先である飲食店の看板が見えてきた頃だった。
暗闇の中、黄色に光る看板から目を逸らし、後方を振り返る。背後からの足音は一度も聞こえず、きっと追って来なかったのだと思う。それでも動悸は激しく、息も絶え絶えで、さらに言えば指先は小刻みに震えていた。
まるで警鐘を鳴らすようにバクバクと鳴り響く自分の心音は一向に止まなかった。
どうしてあいつは俺のことを待ち伏せていたんだろう。俺が抵抗しなければ何をする気だったのだろう。あの時、何を言おうとしていたのだろう。
考えても分からない事ばかりだった。
───『なんならあの殺人事件の犯人、あの客なんじゃねーかと思ってるくらいだし』
いつかの柴田の声が脳裏を過ぎる。ぶるり、と身震いした──その時。
「…和真さん?」
静まり返った空間に響いた、鈴を転がしたような声。それほど大きな音量ではなかった。むしろ控えめに発せられたそれに過剰なほどにビクッと肩を揺らしてしまった。
「どうしたんですか?すごい汗ですよ」
振り返った俺を見た彼女は驚いたように目を見張り、タタッと此方に駆け寄る。そして鞄の中から取り出した花柄のハンカチで俺の額に滲んだ汗を優しく拭ってくれる。
「何かあったんですか?」
心配そうに俺の顔を覗き込みながらそう尋ねてくる彼女に本当の事を言うべきか迷ったのはほんの一瞬の事だった。
「いや、なんでもないよ」
あいつが接触してきた事なんて、言えるわけがない。これ以上、この子を不安や恐怖に晒したくはなかった。
「…本当ですか?」
「うん、本当だよ」
顔に笑みを貼り付けながらそう言った俺に彼女は尚もまだ少し不安そうに眉を下げながらも「なら良かったです」と、やわらかく笑った。
「何かあったらなんでも話して下さいね」
この笑顔を、ずっと守っていきたいと思う。その為ならなんだって出来る気がしてくるのだから、恋の力というものは本当に凄いと思う。
じゃあ行こうか、そう切り出したのは俺の方だった。じとりとした熱気に覆われている、暗い夜道を進む。考えないようにしたいけれど、どうしても脳内にはあの男の姿がチラついてしまう。何度も後ろを振り返りそうになったが、寸でのところでグッと堪えた。そんな素振りは彼女の不安を煽るだけだ。
「あ、そういえば」
シンとした沈黙を先に破ったのは彼女の方だった。足を止め、鞄の中にがさごそと手を入れた彼女は、次の瞬間、2枚の紙切れのようなものを取り出し、俺に見せるようにそれをヒラリと持ち上げた。
「…水族館?」
その紙切れは、隣町にある水族館のチケットだった。
「はい、そうです。今日、バイトの人にもらったんですけど…良かったら一緒にどうかなって…」
少し照れたように笑いかけてくる彼女を抱き締めたい気分だった。その気持ちを必死のところで抑えながら「うん、行こう」とその誘いを快諾する。
「実は俺も、どこか出かけようって誘おうと思ってたんだ」
「え、本当ですか?」
「うん。でも、なかなか言い出せなくて…」
「ふふ。その気持ちだけで嬉しいです」
にっこりと笑う彼女から、チケットを受け取る。話し合った結果、今週末にその水族館に行く事になった。待ち合わせの場所や時間を決めて、水族館のホームページを調べたりしながら足を動かしているとあっという間に彼女の住むマンションまで辿り着いてしまった。
「じゃあ週末、楽しみにしてます」
マンションのエントランスで笑顔で手を振る彼女を見送り、俺も帰路に着く。
またあの男が襲ってくるんじゃないかと周りを警戒していたが、その日あの男が再び現れる事はなかった。
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