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「でもあんまり馴染めなくて…もう帰りたいなぁって…」
彼女ははらりと落ちてきた横髪を耳に掛けては曖昧に微笑む。華やかなその見た目とは似つかない自信のなさそうな表情や控えめな声色、そして何より“此処から逃げ出したい”という気持ちを抱えているところがどうしても自分と重なった。
「そう思ってたところで出て行く人が見えたので。もし帰るならついでに送って行ってもらえないかな、なんて思っちゃって…つい声を掛けてしまいました」
肩を竦めて笑った彼女はそのあと思い出したように「トイレに行く途中だったなら邪魔してすみませんでした」と深々と頭を下げたから「いやっ、」咄嗟に声が出てしまった。
「ちょうど、帰ろうと思ってたから」
本当はさっき言われた通りトイレに行くだけのつもりだったけれど、申し訳なさそうに謝る彼女の表情を見たら口が勝手に動いていた。まぁでも本当に帰りたいと思っていたからここで帰る事になろうとも何も困る事は無い。むしろ帰れる理由ができた事をラッキーだと思っているくらいだった。
「俺でよければ家まで送るよ」
そう言うと彼女は「いいんですか!?」と声を張り上げた後、花が咲いたように満面の笑みで「ありがとうございます!」と頭を下げた。
───
さっき知り合ったばかりの女の子と肩を並べて歩くという事はなんだか新鮮だった。違和感とも言うかもしれない。
芝田に飲み会の代金を預けて居酒屋を出ると暗く染まった夜道には飲み屋を出入りしている人がチラホラと行き交っていた。夏特有のじめりとした空気を肌に感じながら彼女の歩幅に合わせて歩いていると、隣から控えめな声が掛かった。
「あの…お名前聞いてもいいですか?」
「ああ、うん。俺は谷本和真」
「和真さん…って呼んでもいいですか?」
「うん。好きに呼んでくれていいよ。君の名前は?」
「私は、村上 美里っていいいます」
可愛らしくもあり綺麗さも兼ね備えている彼女にピッタリな名前だと思った。綺麗な名前だね、と思ったままの感想を口にした俺に隣の彼女は嬉しそうにはにかんだ。
初対面の相手とはなかなか打ち解ける事が出来ない。多分、気を遣いすぎてしまう事が原因だと思う。だから大抵、楽しさよりも疲労感が勝ってしまうのだけれど、この日は違った。
少しアルコールを摂取していたからか。それともあの騒がしい飲み会から思ったよりも早く解放されて心が軽かったからか。はたまたそのどちらでもなく、ただ単にこの子──美里ちゃんと話すのが楽しかったからなのか。
「美里ちゃんも都会からこっちに来たの?」
「はい。私、田舎でのんびり暮らすのが夢だったんです」
「俺も同じ。でもさ、それ言うと不審がられない?」
「っえ、そうなんです!“本気で言ってんの?”みたいな目で見られたり」
「“見下すんじゃねーよ”とか言われたり」
「それです、それ!嫌味?とか聞かれちゃって、そうじゃないのに~!ってなります」
「はは、すっげえ分かる」
意外にも共通点が多く、信じられないくらいに会話は弾み、時には二人とも足を止めて笑い合うほどには和気あいあいとした時間が流れていた。
「あ……、あそこが私の家です」
空気を裂くように足を止めそう言った彼女が指差した先には、可愛らしい外観の二階建てのオシャレなマンションが佇んでいた。
正直“もう着いてしまったのか”というのが率直な感想だった。名残惜しいとか、離れ難いとか、そういう感情を抱いたのは考えてみればこの時が初めてだったかもしれない。長年住んだ地を離れる時でさえ、こんな感情は湧かなかったというのに。
「送ってくださり本当にありがとうございました」
俺に向き直り、深々と頭を下げる姿に咄嗟に口を開く。
「いや、全然。帰る方向 同じだったし、それにほら……楽しかったから」
つい口を突いて出てきてしまった言葉に赤面しそうになった。
心臓がざわついて落ち着かない。こんな感覚は初めての事だった。
「あの…」
控えめな声が鼓膜を撫でる。
「もし良かったら連絡先、教えてもらえませんか?」
今思えばこの時にはもう、俺は彼女に随分と惹かれていたのだと思う。
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