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三、
早坂先生が芝居小屋で働いていたなんて。女のような見た目と、しょうすいという名前からして恐らく早坂先生で間違いないだろう。養生所でも働いていて芝居小屋にもいて‥‥なかなかに濃いというか、複雑そうな人生を送っているようだ。水戸の生まれだと言っていたけれど、江戸に出てきたのはなぜだろう。
僕らは湯島天神を後にし、道中にあった団子屋で焼きたての団子を頬張っていた。須田さんがご馳走してくれたのだ。須田さんは用事を思い出したから、とお金を払って足速に戻ってしまったのだった。
大橋さんは団子をさっさと食べきってしまい、たれで手や口のまわりを汚しながら芝居の感想を一人で語っていた。空になった串を指し棒のように揮う。僕は話を聴いていただけだったが食べるのが遅く、大橋さんは僕の手に握られた手付かずの団子を時折ちらりと見ながら熱く語った。
「実はね、穣くん。おいらはね、早坂先生が芝居小屋に居たんじゃないかってのは勘づいていたのさ」
「え? そうなんですか?」
「まさか、さっきの小屋だとは思わなかったけど、身なり? 仕草? 言葉遣い? それがさ、どうにも江戸っ子のそれとは思えなくてさ」
「それは僕も思います。品があるというか、良い血筋の生まれなのかな、とか」
「髷も結わない頭も剃らない男だなんて、武家の生まれには思えない。医者か、とも思ったが、着ているものからして、もしかして役者かなにかかって考えたことがあってさ」
「ああ、でも早坂先生は五條堀屋敷に来る前はどこぞの養生所にいたという話ですよ。医者の手伝いをしてたみたいです」
「え」
知らなかったのだろうか、大橋さんは驚いたようすで手に持っていた串を取り落とした。
「それホントかい?」
「はい、今朝寝所で言ってました」
「へえ、それは知らなかったなあ」
言いながら落ちた串を拾い、大橋さんは縁台に腰かけなおす。
「それはそうと」
再びちらりと僕の団子を見、改めて座り直して僕に向き合った。
「気晴らしになったかい?」
「え?」
「気晴らしのために散歩に出ようとしてたんただろう」
「ああ、そういえば」
そうだった。大橋さんの調子に飲まれて、そんなことは忘れていた。僕の気は晴れたのだろうか。
「なにか‥‥ずっと思いつめてたろう、君は。たまにはこうしてなーんにも考えずに息をしてみるのもいいもんさ」
「‥‥大橋さんはなにかに落ち込んだり悩んだりしますか?」
「そうさなあ‥‥」
大橋さんは腕組みをして空を見あげた。二、三、呼吸をしてから声高に笑った。
「悩む隙がねえや、おいらにゃ」
*****
それから僕たちは、なけなしの小遣いから早坂先生へのお土産として団子を買った。ご隠居には、と問うと大橋さんは、喉に詰まらせるといけねぇやと笑ってご隠居の分は買わなかった。
思えば、早坂先生に言われなければこうして外に出ることも、芝居を観ることも団子を食べることもできなかった。本当に感謝に値する。もちろん、いま隣を歩いている大橋さんにも感謝している。僕一人だけだったら、きっと屋敷のまわりを一周して終わりだっただろう。それをこんなところまで連れてきてくれたのだ。
「そういや、この近くだって話だなあ」
もうすぐ屋敷に着くというところで、大橋さんがきょろきょろしながら言った。
「なにがですか」
「さっきの芝居のよ、現場よ」
「はい?」
恋慕にやぶれた留蔵が、お駒を殺め手脚を切り落とし、お駒の身体も手脚も投げ棄てたお堀がこのあたりにあるというらしい。のちに置いてけ堀と呼ばれたほどの恐ろしい場所というが、まさかそんな悪い意味で有名な現場が屋敷の近くにあるなんて、たまったもんじゃない。
大橋さんは屋敷と反対方向へずんずんと進んでゆく。僕は一人でも帰ろうとしたが、いま一人ぼっちになることに薄気味悪さを感じて、大橋さんのあとをついてゆくことにした。
あまり来たことのない道でもあるし、曇り空もあいまって一気に薄暗さを感じる。そのうちに、それらしいお堀にたどり着いた。どす黒い水面に枯れ葦が生い茂り物々しさが漂っている。こんな底も見えない水のなかに棄てられた
なんて、そりゃお駒も化けて出てくるだろう。
「本当にあったんですか、そんな残忍な事件が。だとしたらもうすこし騒ぎになりませんか」
「嘘か真かなんて実際はどうでもいいのさ。いわくつきの場所がある、というのが重要なのよ穣くん」
「はぁ‥‥」
団子が固くなっちゃいますし早く帰ろう、と言おうとした瞬間、どこからともなく冷たい風がザァッと吹き、枯れ葦をガサガサと大きく揺らした。ふと視界の端に赤い着物の人物が見えた気がして、思わず大橋さんの袖を強く引いた。
「どうした?」
「大橋さん‥‥あれ‥‥」
幻などではない、本当に赤い着物の人が黒く揺れる水面を見つめて立っている後ろ姿がそこにある。着物を染めるあの赤は斬られたときの血か。先ほどの芝居小屋でのお駒の映像と重なる。彼女も赤い着物だった。長く黒い髪をひとつに結わえ、ゆらゆらと風に揺られているように見えるあの姿は――
「なーんだ、早坂先生じゃねえか、穣くん」
「おや、藤川くんと大橋くん」
赤い着物の人物が振り返った――その顔は見慣れたもので、確かに早坂先生だった。
「穣くん、もしかしてお駒の幽霊とでも思ったのか?」
「ま、まさか。いや、でも‥‥」
近づいてきた人物は、本当に早坂先生だった。よかった‥‥。赤い着物に見えたそれは褞袍だった。
「どうしました? 幽霊ってなんです?」
「いやね、穣くんったら、さっき観てきた芝居があまりにも怖くて、早坂先生を幽霊だと思ったらしいんですよ」
あはは、と愉快そうに笑う大橋さんに多少の苛立ちを覚えながらも、自分の見たものが生きている人間だったということに安堵した。
「その芝居が怪談なんですけど、その元になった事件がこの堀で‥‥って穣くんに冗談言ってたんです」
「え? 嘘なんですか、ここ」
「さあ。でも、それっぽいだろう。言ったじゃないか、嘘か真かなんてどっちでもいいのさ」
「この時期に怪談なんてやってるんですね」
「そうなんですよ。今度先生も一緒に行きましょうよ」
「芝居、ですか」
一瞬、早坂先生の表情に翳りが見えた気がした。咄嗟に須田さんの言っていたことを思い出す。
「早坂先生、須田さんという芝居小屋の人を知ってますか」
「え」
今度は確実に表情が曇った。いつもは穏やかに笑みをたたえている目元が、いまは大きく見開かれている。
「‥‥昔、お世話になったことが、ありますね」
なんだろう。なにかあったのだろうか。とても言いづらそうに声を絞り出した早坂先生は、視線を水面に移した。
「ま、寒いですし、お土産もありますし、そろそろ帰りますかね」
空気を読んでくれたのか、それとも持ち前の性格なのか、大橋さんが明るく言った。
「そうですね、帰りましょう。大橋くん、お土産ってなんですか」
「団子なんですよ!」
「まあ、それは嬉しいですね」
早坂先生と大橋さんが僕を置いてゆく。すこしずつ遠ざかる二人の背中を見つつ、ガサガサと揺れる葦と黒く震える水面に気を取られる。
「おーい! どうしたんだ穣くん!」
「風邪をひいてしまいますよ」
二人が僕に声をかける。僕は葦の音から逃れるように二人の背を追った。
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