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五、
音のするほうを一斉に見た。陽の光に透かされて黒いものが障子の桟を引っ掻いているようだった。かすかに鈴の音もする。もしや、八塩か?
それを見たご隠居は堪えるように笑った。
「ほうら、下手人が自らやってきたわ」
まさか、この猫が? 草刈先生の脇差を使って斬りつけたというのか? 僕は思わずご隠居を振り返って言った。
「八塩が下手人?」
「猫やないで」
ご隠居の言葉と同時に、猫の影を覆うように人影が現れた。その人物は屈んで八塩に声をかけた。
「こら、ご隠居の部屋にいたずらしちゃいけねえよ。おいらが怒られるかもしれないだろ」
その声に耳を疑った。つい最近まで僕を元気づけようとしてくれていた、頼もしい人の声だった。やりたいことを見つけ、その道へこれから進もうとしている人の声だ。
「大橋さん‥‥?」
早坂先生が障子を開けた。いままさに黒猫を抱きかかえたばかりの大橋さんがそこに居た。
「あ、すみません。この子が爪を研いじゃって‥‥。あはは、早坂先生がここに居たからですね。いきなりおいらんところへ来て着物の袖を噛んだかと思ったら、ここまで走ってきたんですよ」
大橋さんが下手人だなんてなにかの間違いだろう。そんなことあるはずがない。だって、大橋さんが草刈先生を斬る理由が無い。
「八塩、来なさい」
早坂先生が座ったまま八塩に手を伸ばすと、黒猫はそれに応えるようにひとつちいさく泣き、主の膝へ飛び降りた。早坂先生は八塩を優しく撫でてから、その場に立ったままの大橋さんを見あげた。
「君も入ってきなさい」
「え? はい」
ポカンとしたまま大橋さんは後ろ手に障子を閉め、僕の隣へ座った。早坂先生は無表情で見つめ、柴沢先生は怖い顔で睨んでいる。ご隠居は変わらず愉快そうに笑んでいた。
「もう、我慢の限界ですよ」
「‥‥なんのことですか」
「本当のことを言ってしまいなさい。なんのためにご隠居がいままで待ってくれていたか‥‥。君、私たちの話を外でずっと聴いていましたよね」
「盗み聞きするつもりはなかったんですよ。ただ、聴こえてきちまったというか」
「あの晩も、そうだったんですね」
大橋さんはびくりと肩を震わせて、ごくりと唾を飲んだ。そして僕の背へ隠れるようににじり寄ってきた。
「助けてくれよ、穣くん。怖いよ、早坂先生が」
「大橋さん‥‥あなたが草刈先生を斬ったんですか‥‥」
「どうしてだい。そんなことするわけないさ」
僕だってそう思いたい。そんなわけがない。どうして先生たちは大橋さんが下手人だと言うのだろう。
「早坂先生、どういうことなんですか。なにか知ってるんですか」
「藤川くんには悪いと思っていました。でも、真実を明らかにするためには、君にも黙っている必要があったのです」
「柴沢先生も、なにが起きているのか知ってたんですか」
恐ろしい形相のまま柴沢先生は頷いた。先ほどよりも強く拳を握りしめていた。
「大橋、お前はご隠居のお情けを無下にしたんだ。言っている意味が判るな?」
「情けをかけてくれなんておいら言いました?」
「往生際が悪いですね。証拠はあるんですから、いつまでもそうしているのは苦しいと思いますよ」
早坂先生の言葉を聞いた大橋さんは、大きく溜息をついた。そして鼻で笑った。
「なにがおかしい」
「もう無理か」
くっくっくっ、と笑う大橋さんは僕の肩に手を置き自らの身体を隠すようにしているが、わずかに顔を出して、
「おいらは知りませんよ。だって草刈先生が悪いんだから」
じっとりと重たく湿ったような声で言い放った。
「‥‥認めるんですね」
「あーあ、こんなところさっさと出てゆけばよかった。早く須田さんの小屋で正式に働くことにすればよかったよ。芝居小屋なんて各地を転々とするんだからどこへでも逃げられたのにさ。人が斬られた屋敷でいきなり消えたら疑われちまうからまだここに残ってたのに。やらかしたなあ」
僕は慌てて振り返って大橋さんを見た。いつものような飄々とした姿はなく、冷酷無情な顔をしていた。
「なに言ってるんですか、どういうことですか大橋さん」
「君を利用させてもらった。すまんね」
まったく悪びれるようすもなく訥々と語り始めた。
「面白いことになったなあと思って見ていたのさ。だっておいらが草刈先生を斬ったのに、柴沢先生が下手人だと自訴なんかするんだもの。そりゃあ気分も良くなって芝居も観に行くってもんよ。おいらはね、さっさととんずらこいてやろうと逃げる支度はしていたんだが、どうなるのか顛末が気になったもんでさ、もうすこしここに残ることにしたのさ。でもそれが失敗だったね。こうなっちまった」
大橋さんは両脚を投げ出して、手を後ろにつき天井などを見あげている。
「どうして春好を斬った」
震える声で柴沢先生が問う。
「うーん、なんだったかなあ。あ、道場ですよ。京で再建するとかいうので先生たちが言い争ってたじゃないですか、それを廊下の陰で聞いてたんです、あの夜に。それで、おいらも行きてえなあって思って、先生たちが居なくなってから部屋に居た草刈先生にお願いしたんですよ。おいらも京に行ってみたいからお供させてくれ、って。そうしたらですよ、だめだって言うんですよ」
ばたばたと脚を揺らして不服そうに頬を膨らませる大橋さんは、ぐるりと舐めまわすように先生たちを見てから、また笑った。
「ずるいじゃねえですか、おいらも行きたかったなあ。どうしたらつれてってくれるか訊ねても、子どもは早く寝なさいとか言うんで頭にきちゃって。だっておいらはもう元服した大人だってのにさ」
「それで大橋くん。逃げる算段までしていたというのに、随分とあっさり認めるんですね」
八塩も大橋さんを睨んでいるようだった。黄色い目がまっすぐとこちらを向いている。
「だって、おいらがやったという証拠があるんですよね? そんなん言われたらもう無理かなと思うしかねえかなと」
「あの、その証拠っていうのは‥‥?」
思わず僕が訊いていた。なにがどうなってどこへ進んでいるのか、この場において僕だけが取り残されたような気になっていたたまれなくなっていた。
「着物ですよ」
早坂先生がそう言うと、ご隠居が衣紋掛けの羽織の陰から畳まれた布を投げて寄越した。灰色の布を――着物は、大きく破れてところどころが赤黒く染まっていた。この色の着物を大橋さんがよく着ていたのをかすかに思い出す。
「ありゃ。どこへ消えちまったのかと思ってましたけど、ご隠居が持っていたんですね」
大橋さんは身を乗り出して着物を取ろうとしたが、早坂先生の手のほうが速かった。皺になっている汚れた灰色の着物をばさりと広げてみせる。
「これは君のものですね」
「――そうですけど」
「一度、私の洗濯へ紛れていたのです。洗う前に気がつきました。こんなに汚れてこんなに破けていたらすぐに判りますよ」
そういえば、大橋さんの洗濯に早坂先生の交ざっていたことがあったと話していたっけ。そのときに入れ違ってしまったのか。
「私のところへこれがこなければ、君の思惑通りに偽りの下手人が裁きを受けるところでしたよ。正直、この着物を見逃していれば真相にたどり着けなかったかもしれません」
着物の前身頃に変色した赤い斑点が飛び散り、裾のあたりが強い力で引っ張られたのか、大きく破けている。件の晩に大橋さんが着ていたというのか。
「そんな着物一枚で‥‥ケチってないでそんなん捨てちゃえばよかった」
「本当に、大橋さんが、やったんですか」
「そうだよ。おいらは京に行きたいから一緒につれていってくれとお願いしたんでさ。でも草刈先生はまともに取り合ってくれなかった。傷の手当が云々とか柴沢先生と話してたから、ああもう、うるせえなと思ってね、つい」
大橋さんは自分の頸をスッと刎ねる真似をして、あの晩のことを話し始めた。
*****
「草刈先生、どうしてもだめですか」
廊下でやりとりを聞いていた大橋は、すぐさま草刈の部屋を訪れていた。行灯のみの薄暗い室内で、草刈は入ってすぐの障子にもたれかかって座っていた。大橋は軽く肩で息をしている草刈を見おろした。暗くて草刈からはその表情がよく見えていなかった。
「君はまだここでやることがあろだろう、大橋くん。先のある若者を自らの願望のために好き勝手するわけにはいかないのさ」
「‥‥その先とやらがどこにあるのかなんて判りませんよね、いくら草刈先生でも」
大橋はしゃがんで草刈と目線を合わせた。
「おいらが必要になることがあるかもしれませんよ」
「どうして君はそんなに僕らについてきたがるんだ」
「うーん。別に草刈先生たちについてゆきたいというより、京へ行ってみたいんですよねえ。どんなところが気になるじゃないですか。五條堀ご隠居もそっち方面の生まれなんですよね? なかなかに愉快そうじゃないですか。がんばればおいらもご隠居みたいに稼いで寺子屋のひとつくらい作れるかもしれねえ。ね、そうでしょ」
「ならなおさら君はまだここに居たほうが良いな。ご隠居の傍で学びなさい。うまくゆけば、ご隠居の跡を継いでここを任されることになるかもしれない」
それを聞いた大橋は、ふうん、とゆっくり頷いた。そして草刈の握りしめる脇差を見た。
「かっこいいですね、それ。ちょっと見せてくれませんか」
「これはだめだ」
草刈はそう言うと、より一層強く握りしめた。
「つまらない人ですね。あれもだめこれもだめ。おいらのなにがそんなにだめなんですか」
大橋は手を伸ばして行燈を近くに引き寄せた。それに気を取られた草刈は、簡単に脇差を奪われてしまった。
「あはは、だめですよ。武士なら簡単に手放しちゃだめですって。――草刈先生いちいちうるさいんで、もういいや」
短くもすらりとして冷たく光る刃が自らの頸にあてがわれるも、それに驚く間もなくその冷たい切っ先が草刈の皮膚を貫いていた。
*****
「あんまりにもおいらを拒絶するから、頭にきちゃったんですよねえ。大事そうに刃物を抱えてるのもなんだか見てて滑稽で。というかそれ本当に斬れるのかなって気になったから、ちょっと試してみたら思ったよりも切れ味が良くてびびっちゃいました。おいらも怖くなって部屋を飛び出したんです。そしたらまだ息があったのか草刈先生はおいらを追いかけてきて、父の形見を返せとか言うんですよ、血塗れになりながら。あまりにも怖いくておいらが草刈先生の脇差を振りまわしたもんだから、先生の身体のどこかを斬っちまったみたいで。気づいたら庭に寝転んでました。おいらのせいにされたらたまらないから、呑気に厠に起きてきた穣くんを殴って運んできて、隣に寝かせてあげました」
あまりにもあっけらかんと話す大橋さんに、誰も言葉が出なかった。だからあのとき後頭部が痛かったのか。僕があの晩どうして外で倒れていたのか判明したというのに、こんなに晴れやかな気持ちにならないなんて。固く握りしめた手を震わせながら、やっと柴沢先生が声を絞り出した。
「お前、そんなことで斬ったのか‥‥刃物を手にしたことが過ちだったとしても、どうしてすぐに人を呼ばなかったんだ。何故藤川を巻き込んだ」
「巻き込んだというより、たまたま穣くんだったんですね。別に誰でも良かった。でもいろいろ詰めが甘い穣くんで良かったかも。――おいらもちゃんと柴沢先生の剣術を習っていればよかったなあ」
溜息と乾いた笑いが入り混じった息をひとつ吐いた大橋さんは僕を見てにやりと笑うと、僕の背後にまわり自らの腕を僕の頸にまわした。羽交い締めにされてしまっていた。
「なんのつもりだ!」
柴沢先生が片膝を立てて、大橋さんに怒鳴りつける。大橋さんは僕の耳許に顔をうずめて笑いを押し殺しているようだった。生ぬるい吐息が耳朶にかかって鳥肌が立つ。
「逃がしてくださいよ。最後に穣くん、やっぱり君のせいってことにならないかな。君がいつまでも惰眠を貪ってないで途中で起きていたら、おいらが草刈先生を殺めちまうなんてこともなかったかもしれないのに――さ、師匠方、おいらを逃がしてくれるなら穣くんも自由にしますよ」
「この人数相手に逃げおおせるとでも思っているのですか、ガキ風情が」
「どうとでも言ってくだせえ」
大橋さんは僕の身体を盾に、後ずさりながら障子へと向かう。閉めたときと同じように後ろ手で開けながら、もう片方の手はしっかりと僕を捕らえている。抜け出そうにも、きつく頸を締められているので息が苦しい。早坂先生は立ちあがり、大橋さんの動向を窺っている。八塩は畳の上で尻尾を太くし、牙を剥いている。柴沢先生は片膝のまま険しい表情で見ている。ご隠居だけが変わらず脇息にもたれかかっていた。
「んじゃ」
その大橋さんの声は、すぐに濁った悲鳴へと変わった。僕は急に解放されたかと思えば、鈍い音と後頭部に受けた強い衝撃とともに畳へと倒された。背中にかなりの重みを感じる。何事かと身じろぎすると、ふわっと背中が軽くなった。ふらつきながらも半身を起こすと、大橋さんがうつ伏せで倒れていた。早坂先生が大橋さんをどかしてくれたらしい。
「え、なにが起き――」
大橋さんが出てゆこうとした障子の向こうに、道着姿の男が立っていた――馬場さんだった。柴沢先生よりもさらに厳しく険しい顔で、竹刀を片手に仁王立ちしていた。馬場さんが大橋さんを木刀で殴りつけたようだ。
「背後から狙うのは武士道に反しているが、柴沢先生を困らせる奴は許さない」
「馬場さん‥‥」
「お役人に声をかけてあるので、まもなく来ると思います」
馬場さんはそう言いながら、伸びている大橋さんの首根っこを掴んでずるずると廊下を引き摺って行った。一瞬の出来事であった。
*****
「大橋さんは、どうなるんですか」
「訊くんですか、そんな恐ろしいことを」
早坂先生は怖い声で言った。
「大橋さんも言ってましたけど、僕が起きていたらば、もしかしたら草刈先生は‥‥」
「それを言うなら私と柴沢先生もです。お互いに意地を張らないで、草刈先生のもとへ戻れば良かったのです。いまとなっては、もうどうすることもできませんがね。それに、私が大橋くんの立場になっていたかもしれません。私もカッとなって人の命を奪ってしまったことが過去にあります。一歩間違えれば、再び私は想い人の命を‥‥」
「でも、今度は違う。早坂先生は人を殺めてはいません。仮に、過去に自らの手で悲しいことを引き起こしてしまったとしても、早坂先生はそれを悔いることができているじゃないですか‥‥大橋さんとは明らかに違います。大橋さんは‥‥」
最後の最後まで僕のせいにしようとした大橋さんの、僕の身体を掴む体温がいまでも染みついているようで鳥肌が立つ。
「――そういえば、奉行所から抜け出した柴沢先生は、やはりなにかしらの裁きを受けるんですよね」
僕の問いに、早坂先生はようやく笑顔になった。
「いいえ、その点は大丈夫なんですよ」
「え? 何故ですか」
「柴沢先生が自訴したのも、奉行所から逃げたのもすべてご隠居の指示でした。本当の下手人をあぶり出すためのね。ご隠居はお奉行とお知り合いですから、事件の解決のために頼んだようですよ」
「そんな‥‥。じゃあ、夜半に道場で二人で言い争っていたのは? 演技だとでも言うんですか」
「ああ、あれは‥‥屋敷の道場に呼び込んだのはご隠居と私ですが、あのやりとりは偽りではありません。あの時点ではまだ下手人が誰なのか確信を持てていませんでしたし。ただ本当に互いに違うということを確かめたかったのです」
正直、心配して損をした気分だ。ご隠居に二人を探ってほしいと言われたから神経をすり減らして動いていたのに。でも、柴沢先生がお咎め無しならそれに越したことはない。僕も、本当の下手人が捕まったことで疑いは完全に晴れた。
思い返してみれば、八塩はそれぞれの場所に居た気がする。事件の晩は早坂先生と柴沢先生の諍いの中心に居た。僕が庭で転んだのも暗闇に溶け込んでいた八塩につまずいたからだ。奉行所から逃げ出した柴沢先生が道場に潜んでいることも、八塩が案内をしてくれた。いまだって、奥座敷に大橋さんをつれてきたようなものだ。
「今回の件を解決したのは僕ではなくて、八塩ですね」
「うん?」
早坂先生は首を傾げた。長い髪がさらりと揺れる。
「須田さんはどう思うでしょうね」
「――そうですね」
ガタン、と障子が開いてご隠居が入ってきた。額を掻きながら皺だらけの顔で笑う。
「悪かったな、藤川はん。もう、すべて終わったえ」
「お役人に引き渡したんですね」
「うむ。最後まで悪びれもしなかったわい」
大橋さん‥‥。一緒に芝居に通って団子も食べて、軽く将来のことも話した間柄だったのに。まさか、その手は血に濡れていたなんて‥‥。〝君を利用させてもらった〟というのは、僕を下手人にしようとしたことに加え、僕を通じて事件のことがどうなっているのかを知るためだったのだ。僕の後頭部が痛むことを心配してくれたのも、僕の身を案じてではなかったのだ。もう、大橋さんに真意を訊くことは叶わないだろう。こんな幕引きがあってよいのか――
*****
数日後、柴沢先生は馬場さんを伴って京へ旅立った。草刈先生の父上の道場を再建するために、一からまた始めるという。別れは惜しかったが、いつか立派な師範になって江戸を訪れると約束してくれた。江戸には、草刈先生の墓があるからだ。馬場さんは僕に、八つ当たりして悪かったと謝ってくれたし、柴沢先生は深く深く頭をさげて、早坂先生の猫を侮辱して悪かったと詫びた。
僕はというと、元服して髷を結い、早坂先生を支えることにした。剣術も勉学も先生方には遠く及ばないが、波乱のあったこの五條堀屋敷に留まって助けになりたい。
江戸の雪は、溶けかかっていた。冷たく暗い影を落としていた今回の事件が温かくほどけてゆくようなお天道様だ。
僕とご隠居は、檀那寺へ赴いて草刈先生が眠る石の前に来ていた。静かに手を合わせる。
「ご隠居、みんなご隠居に拾われてあの屋敷に集まったんですよね」
「そうやな。妻に先立たれたわしには君らが唯一無二の身内や。その身内でこないなことが起きたんは、つらかったなあ」
「それでも、ご隠居に出会えて良かったと皆が言っています。もちろん僕もそうです」
「ふふ、老い先短いこのただの仕舞うた屋にはもったいない言葉やわあ」
ちらりと横目でご隠居を見ると、皺の刻まれた目尻には涙が浮かんでいた。子ども同然の草刈先生が亡くなり、同じく子ども同然だった門下の大橋さんを罪人にしてしまったのだ。心苦しかっただろう。ご隠居の寿命が縮んでいなければいいが――
帰ろうか、という空気になったとき、耳に馴染んだ鈴の音が背後から聴こえてきた。ご隠居と二人でそちらを振り返ると、早坂先生が黒猫の八塩を抱いて立っていた。僕たちの傍まで来て、草刈先生に手を合わせた。そしていつもの穏やかな表情で言った。
「お団子でも食べながら帰りましょうか」
春の訪れを思わせる、暖かい陽射しが僕らに降り注いでいた。
了
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