第三章 早坂昌吹

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 二、  のそりと起き出した僕は、早坂先生の言うとおりに朝餉をいただき、江戸の町へくり出すことにした。僕が出かけ支度をしているのを見て、大橋さんがなにやらニヤニヤしながら近づいてきた。 「藤川はん、どこへゆくのだね」  ご隠居の喋り方を真似しているのか、僕の顔を覗き込んできた。 「いや、ちょっと気晴らしに‥‥」 「そうかいそうかい、いいねぇ。で、どこへ?」  途中まではご隠居だったのに、急に普段の大橋さんに戻った様がすこし可笑しかった。 「いや、まだどこへゆくかは決めてません。ふらっと散歩にでも」 「ふうん」  すると大橋さんは自らの項を掻きながら、懐からくしゃくしゃになった瓦版のようなものを取り出した。 「ねえ、これ行ってみないかい?」  差し出されたその紙には、粗末な浮世絵のような人物画と、文章が書かれていた。 「なんですか、歌舞伎?」 「はは、歌舞伎なんて高価なものおいらたちには手が届かないさ。湯島でちいさな芝居があるのさ。これはその引札だ。どうだ、行ってみないか穣くん」 「芝居、ですか」  そりゃあ、歌舞伎なんてものは僕ら庶民、しかもこんな童が触れられるものではない。以前、一度だけご隠居が連れて行ってくれるなんて話があがったが、そのとき体調が悪かった僕は早坂先生と留守番したのだっけ。 「うーん」 「どうだい、気晴らしになるだろう? お銭はおいらが出すからさ!」  この五條堀屋敷に来てから、いや、その前からも芝居のような興行には触れてこなかった。僕のような人間には相応しくないとすら思っていた。こんな死に損ないの僕には。  ――それでも、こうして誘ってくれる人がいるのなら、行ってみてもいいかもしれない。早坂先生も外の風に当たれと言ってくれたし。 「いいですね、行ってみたいです」 「ふふ、そうだろうそうだろう。最近の君はどうにも塞ぎ込んでいたからね」  なんと、大橋さんにまで心配されていたなんて。‥‥僕が勝手に落ち込んでいたって柴沢先生がどうにかなるわけでもない、それなら僕は僕の過ごし方をするしかない。 「あ、あの。馬場さんも一緒というわけには行きませんか?」  馬場さんにも立ち直ってほしい。それは本心だった。 「彼ね‥‥彼にはもうすこし時間が必要だとおいらは思うね」 「どうしてですか」 「誰も彼もが同じようには前を向けないものさ。とにかくいまは君が前を向いて、そうしたら君は馬場さんに声をかければいい」 「‥‥」  一理ある、と思った。普段はなにを考えているんだが、掴みどころのない不思議な雰囲気を纏った人だなと思っていたが、大橋さんはふいに芯のあることを言うので驚いてしまう。 「さて、ではゆこうではないか!」  ばし、と強めに肩を叩かれたが、不思議と痛くはなかった。温かささえ感じた。 「時に穣くん、頭は痛くないかい?」 「はい?」 「ほら、事件の晩は庭に寝っ転がっていたんだろう? どこかぶつけていないかと思ってさ」 「ああ‥‥そういえばここがちょっと痛かったですね」  言いながら僕は後頭部をさすった。 *****  沈みかけの僕の心持ちとは裏腹に、江戸の町は変わらず喧騒に溢れている。雪は降っていないもののところどころに掻かれた跡が残る。 「穣くんは湯島に行ったことは?」 「いえ‥‥無いと思います」 「そうかぁ。おいらは一度だけあったような、ないような」  大橋さんは、意味がありそうで無いような会話をするのがうまいと思う。普段だったらちょっと鬱陶しいなと思いつつも、いまはそんな大橋さんの楽観的な性格に助けられている気がする。  それから僕と大橋さんは――というかほとんど大橋さんが話をして歩みを進めた。草刈先生が斬られたこと、柴沢先生が奉行所で捕らえられていること、柴沢先生と早坂先生が不仲なこと‥‥思いつくまま自分の考えを述べていった。  そのほとんどは、僕の考えとあまり変わらなかった。大橋さんも、柴沢先生が下手人ということには納得がいっていないようだった。かといって、誰が草刈先生を斬ったのかは想像がつかないという。強盗の仕業かな、と大橋さんは哀しい目をした。 「ねえ、知ってるかい穣くん」 「なんですか」 「早坂先生が着てる羽織や褞袍、鮮やかでずいぶん美しいと思わないかい」 「まあ、確かに女物っぽいですね」 「女物なのさ、それが」 「え?」 「洗濯したとき、早坂先生の着物がおいらの着物に交ざってたことがあってさ。あまりにも仕立てが良いからまじまじと見ちゃったことがあってね」 「はあ‥‥」  男が着るには艶やかだなとは思っていた。その着物をじっくりと眺めている大橋さんを想像すると、さすがにちょっと気味が悪いか。 「や、見てただけだからな!」 「なにも言ってませんよ‥‥」 「どうやら自分で針仕事をしているらしいんだよ。器用だよなあ。最近おいらも一枚着物をだめにしちゃってさ。早坂先生に縫いなおしてもらおうかな」 「だめにしたんですか?」 「うん? ああ、ちょっと破いちまってね」  しばらく大橋さんの喋るに任せていたら湯島天神に着いていた。天気が良いこともあって境内は賑わい、年季の入ったちいさな小屋が掛けられているあたりには人々が群がっている。 「あれが芝居小屋さ!」  急に大橋さんに手を引かれた。よっぽど芝居が楽しみだったらしい。思い返してみると、大橋さんと二人きりでこんなに会話をしたことはなかったかもしれない。ここ最近は初めてのことばかりが起きる。  小屋のなかは、見た目通りの粗末な作りで、木やら竹やらが剥き出しのところもある。それでも客席――という名の地べたには所狭しと人々が犇めいている。僕らは端っこのほうにやっと座ることができた。  物語の内容としては、町娘お駒に恋慕している役者の留蔵が、想いを拒絶されたことに逆上しお駒を殺め残虐にも手脚を切り落としてしまう。その晩から留蔵は悪夢に魘され数多の怪異に襲われ――といった話だった。江戸で有名な実話や怪談を元にした創作らしいが、なにも冬に怪談話を上演しなくても‥‥と思う。  これはどういうことですか、と大橋さんに訊きたい瞬間があったけれど、ずいぶんと集中して観ていたので声をかけられなかった。でも芝居の空気を感じるには充分だった。舞台にはくたびれた緞帳が張られていただけなのに、ちゃんとその場のひんやりとした温度や風、水の音を感じたし、お駒を演じていた人はやたら美しかった。 「いやあ、怖かったねえ! おいらも女には気をつけなきゃ」 「あれは留蔵が悪いと思いますけどね」 「はは、男ってのはそういうもんさ。手に入らないとなりゃ、なにをしでかすか判らねえ」  芝居小屋を出た僕は、すこし歩きませんか、と境内をひとまわりすることにした。このまま帰ってしまうのは大橋さんが淋しいだろうなと思ったからだ。いろいろ語りたそうだし、せっかく来たのだから外の空気を吸いたい。 「五條堀ご隠居だって連れ合いがいたみたいだけど、先立たれたんだかなんだか、いまじゃ男寡夫さ」 「やもめ?」  僕が聞き返すと、背後から声をかけられた。 「ちょいとオメェたち」  僕らが足を止めて振り返ると、商人風の男が立っていた。歳の頃はご隠居よりもすこし若いくらいか。 「なんですか?」  大橋さんが返事をした。商人風の男はにっこりとして一歩近づいてきた。 「いま五條堀と言ったかい?」 「はい‥‥」 「寺子屋の子らか?」 「ええ」 「弥太郎さんはお元気で?」 「ご隠居のお知り合いですか?」 「そりゃあ五條堀屋敷といったら有名だろう」  はは、と笑う男。白い息が舞う。 「いやね、昔うちの小屋にいた若い衆を弥太郎さんのところで面倒見てもらったのさ」 「小屋?」  男は自らの背後の芝居小屋を指差した。 「役者ではなかったが、いろいろ気がつく良い奴でね。下働きしてたのさ」 「そんな人がご隠居のお屋敷に?」 「――まぁ、うちでもいろいろあったもんでさ。行くとこ無ぇってんで、弥太郎さんの屋敷で世話してもらうことになったのよ」 「なんて人だろ? 名前とか覚えてます?」 「あー、なんて言ったっけなあ。綺麗な子でね。役者やってりゃきっと良い女形になれたのになあ、変わった名前だったな」  須田、と名乗った商人風の男は、はは、と笑いながら大橋さんとああでもないこうでもないと談笑を続けた。僕はそれをただ頷いて聴いているだけだった。留蔵がお駒の手脚を切り落とす場面、そこがずっと頭のなかでぐるぐる回っていた。芝居とはいえ人を殺めるという行為を目の前で見たのは初めてだ。草刈先生もあのようにして、誰かに斬られてしまったのか‥‥。 「ああ、思い出した!」  須田さんが大きな声を出した。 「しょうすい‥‥昌吹っていったなあ、あいつ」  まさか。 「あの」  僕が急に会話に入ってきたので、大橋さんも須田さんも驚いたようだった。 「もしかして、その人は早坂という苗字では?」 「さあな‥‥そんなもの名乗ったっけか。でも昌吹という名前なのは確かさ。女のようなナリをしてたが、男だってんで驚いたのを覚えてるよ」  須田さんは白い息を吐いて笑った。しかしすぐに顔が険しくなり、肩を竦めて声をちいさくした。 「まさか弥太郎さんとこで人が斬られるとはなあ‥‥オメェらも大変だったろう」  どうして知っているんだと思ったが、瓦版で江戸中に知れ渡ってしまっているらしい。ということは、柴沢先生が下手人‥‥ということが出回るのも時間の問題か。 「また今度ゆっくり弥太郎さんと話してぇなぁ」  須田さんは先ほどの調子に戻りまた笑った。
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