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四、
屋敷に戻った僕たちは、早坂先生の部屋で火鉢を囲みながら怪談話をした。と言っても僕は早坂先生と大橋さんが話すのを聞いているだけだった。先生が淹れてくれたお茶を飲みながら、先生にと買ったお土産を何故か僕たちが食べていた。早坂先生は、私は一本だけあればいいので、と微笑んだのだ。
早坂先生の部屋は書物が多く、布団と文机のまわりにも幾つか積まれていたが、決して散らかっているわけではなかった。八塩は積まれている書物を枕にしながら文机の上で丸くなっていた。
あそこの井戸からは女のすすり泣く声がするだとか、あっちの川では白い手に足を掴まれるだとか、人の居なくなった長屋には髪切りの辻斬りが棲みついているだとか、どこから聞いてきたのか根も葉もないような怪談話だった。
そのうちに、草刈先生の話題になった。大橋さんが、五條堀屋敷も人が居なくなったら幽霊が出るとか言われるのか、なんて言い始めたからだ。
「幽霊ってのは、未練があって成仏できない人のことなんですよね? 草刈先生は成仏できたんですかね」
「‥‥草刈先生が化けて出ると思うんですか、大橋くんは」
「うーん。おいらにゃ、そんな人には思えないですけど、思うところはあるだろうなって」
「化けて出ても構わないと、私は思います」
「え?」
僕と大橋さんは同時に声をあげていた。幾分か僕のほうが大きかったかもしれない。
ぱちん、と弾けた火を見ながら早坂先生は続ける。
「化けようが化けまいがそれは草刈先生なんでしょう? だったら私は会いたいですよ、草刈先生に。まだお話したいこともありましたし、指南してもらいたいこともありました」
「だったら尚更、許せませんね下手人が」
僕は、早坂先生の艶のある黒髪を見ながら言った。外が暗くなりかけてきたので行灯をつけているが、その揺らめく火が黒髪の艶も揺らしている。
「そうですね‥‥何故、草刈先生は斬られなければならなかったのか‥‥神か仏か、命をひとつ差し出せというのなら、私の命を取ればよかったのに」
儚くも悲痛な叫びに、僕はなにも言えなかった。
「早坂先生が死んでしまったら、おいらが哀しいです」
「大橋くんが‥‥?」
「当然です。早坂先生に死んでほしいと思う人間はこの屋敷にゃ居ませんよ」
「そう、ですかね‥‥」
「早坂先生もしかして、草刈先生の後を追おうとなんてしてないですよね? 幽霊でも会いたいって、自分から会いに行こうとしてないですよね?」
「――まさか」
「そんなことおいらが許しませんから」
「‥‥はい」
俯いて返事をした早坂先生の表情は哀しそうで、しかしどこか嬉しそうでもあった。
*****
大橋さんはほかの門下に声をかけられて一足先に湯殿へ行ってしまった。部屋に二人きりになってしまい、すこし気まずい。須田さんの――芝居小屋にいたときの話を訊きたいが、踏み込んではいけないような気もして怖い。
「早坂先生」
「なんでしょう」
すこし固くなってしまったであろう団子を、早坂先生が食べ終えるのを待って声をかけた。いつのまにか八塩が先生の膝の上に来て眠っている。
「さっき大橋さんが言ってたこと‥‥僕も同じですからね。勝手に‥‥その‥‥命を断つなんてこと‥‥」
「大丈夫、判ってますよ。優しいですね君たちは」
「僕は‥‥家族がいませんから、この屋敷のみんなが家族なんです。親だったり兄だったり弟だったり、そんな人たちが死んでしまうなんて苦しいです」
「藤川くんは、お母様を亡くされてるんでしたね」
「ご隠居に拾ってもらわなかったら、どうなっていたか判りません」
「‥‥私も拾ってもらった身ですから、五條堀先生に感謝しなきゃいけませんね」
ゆったりとした動作で八塩の艶やかな背を撫でる。
「あの、芝居小屋のことは訊いても‥‥?」
「多くは語れませんよ。水戸から出てきて療養所の下働きとして入って、そこから須田さまに引き抜かれて芝居小屋へ。小屋でも雑用でしたけどね。そしていろいろあってこの御屋敷に、といった具合です」
早坂先生は微笑んだが、ただ口角があがっているだけで本当に笑っているようには見えなかった。
「いろいろあって、ってところ訊きたいんですが‥‥いや、でも話したくないことって誰にでもありますからね‥‥」
「そうですとも。藤川くんが察しの良い子で助かります」
「えと、じゃあ八塩はいつから飼ってるんですか? これくらいなら訊いても平気ですよね」
言葉が判るのか、八塩はそれまで閉じていた目を薄く開けて僕をじっと見つめた。弓形に黄色く光っている。
「八塩は、芝居小屋で飼われていたんです。野良猫が小屋の屋根裏でお産をしたんですが、生き残ったのはこの子だけでした。じきに母猫も亡くなって、小屋で面倒を見ることにしました。そのときから私がお世話をしているので、こちらへ来るときに連れてきたんです」
「八塩も、母が居ないんですね」
「‥‥私たちと一緒ですね」
「では尚更、早坂先生は生きなければならないですね。八塩のために」
「――」
刹那、早坂先生はハッとして僕の顔を見た。しかしすぐに俯いて八塩を撫ではじめた。さっきまでは無かった穏やかな表情で。
「藤川くん‥‥もし私が居なくなったら、八塩の世話をしてくれますか」
「え。なに言ってるんですか。居なくなるなんて駄目だって言ったばかりじゃないですか」
「藤川くん。私は、人を殺めたことがあるんです」
行灯の明かりに照らされた早坂先生の顔は恐ろしくも美しかった。この美しい顔が僕を見つめていると思うと妙に鼓動が高鳴った。
「芝居小屋で、とある人を殺めてしまったのです。とても大切な人だったのに」
「冗談、ですよね」
「私がいつも女物を着ていること、知っていましたか?」
「ええ‥‥」
大橋さんが教えてくれた、という言葉はどうにか飲み込んだ。
「これらの女物は、その大切な人が着ていたんですよ。女形でしたから」
早坂先生は袖を摘み、ひらひらと揺らす。
「とても美しくて、とても大切な人でした。なのに、私の手で命を奪ってしまった。でもあの小屋の人たちはそれを知りません。事故で亡くなったと思っているはずです」
「女形、ってことは」
「はい。男の方ですよ。本当に心から愛し、慕っていました」
「先生は、その‥‥」
「男の方だからお慕いしたのではなく、あの人だったから愛したのです」
「そんな愛した人を、先生が‥‥?」
「そうです。紛れもなく私が」
「――何故それを僕に話してくれたんですか」
「八塩のために生きなければ、と君は言ってくれたじゃありませんか。私はいままで、私が奪ってしまったその尊い大切な人のためだけに生きてきましたが、生きる理由はほかにもあったのだなと、君が気づかせてくれました。だから君には話してもいいかなと思ったのです」
「――何故その人を殺めてしまったんですか」
早坂先生は火鉢を見つめ逡巡し、再び僕を見た。
「私のものにならなかったからですよ」
目の前の男の人を、何故美しいと思うのかがやっと判った気がした。見た目が美しいのはもちろんだが、この人はどこか狂気を孕んでいるのだ。誰にも触れられない、触れさせないような危うさを纏っているから蠱惑的に感じるのだ。だって、自分のものにならないからといって人の命を奪えるのだろうか。
きっとこの早坂昌吹という人は僕を脅かすために冗談を言っているのだ。あのお堀で幽霊を見たと勘違いした僕をさらに怖がらせるために。でなければこんな話を誰が信じるのか。
「僕に話して、もし僕が誰かに告げ口をしてしまったら‥‥?」
「君がそんなことをする人には思えませんよ」
「――このことを知っている人は他にもいるんですか。僕だけだったらとてもじゃないですけど荷が重いです」
長いこと正座をしていて脚の先が痺れてきたが、いまは別の意味で冷えて感覚がなくなってきている。
「それは申し訳ないことをしましたね‥‥。藤川くんにつらい思いをさせたくて話したのではないんですが‥‥どうして私も唐突に話してしまったんでしょうね」
「あの‥‥先生が忘れろと仰るのなら、僕は忘れますからね。墓場まで持ってゆきますから」
「ふふ、それはありがたいですね。ではあちらで吹聴しないか確認のために私も一緒に行かなければですね。どこまでも追いかけますよ」
どうか、どうかこの話が冗談であれ、早坂先生の作り話であれと願った。
パチリと目を開けた八塩が、僕を見ながらひとつ大きな欠伸をした。
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