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第四章 草刈春好
一、
僕の知っている草刈春好は先生というよりは、仲が良い幼馴染の面倒見の良いお兄ちゃん、といった感じだ。
子どもたちと一緒に泥だらけになって遊んでくれたかと思えば、道場で竹刀を握るさまは誰よりも凛々しく強い。早坂先生や柴沢先生よりも子どもたちの目線になり親身に接してくれる、優しくて頼れる先生だ。それでも僕は大人との接し方がよく判らず、懐くに懐けないでいた。
草刈先生は柴沢先生と同郷で京から来たという。なんでも、たった二人で江戸に出てきたらしい。
僕は、あの晩から近寄りがたくなってしまった早坂先生の部屋の前を足速にを通り抜け、自分たちの寝所に静かに滑り込む。細かく柔らかい雪が絶えず降り、廊下の板も裸足に突き刺さるほど冷たい。月はしばらく拝んでいない。
寝息やいびきの音に紛れるように布団に潜り込む。まわりを起こさないようにゆっくりと動くが、寒さで関節が鈍くなっていると言ったほうが正しいだろう。柔らかい綿に包まれるも、ひんやりと冷えきっていて堪らない。今夜は一段と気温が低いようだ。思わず素足同士を擦り合わせて冷たさを誤魔化そうとする。
ふと、昨年の冬に草刈先生がしてくれたことを思い出した。あの晩も、確か雪が降っていた――
*****
「冷えるね、今夜は」
僕が寝所の襖を開けると、草刈先生が真ん中に敷かれた布団の上で胡座をかいていた。もう皆寝ていると思っていたから驚いた。わずかにたじろいだ僕を見て草刈先生は笑う。子どもたちは先生を囲むように眠っている。行灯の淡い揺らぎのなかで、かすかな寝息が聞こえてくる。
「もうずっと雪ですもんね」
僕は平静を装いつつ後ろ手に襖をそっと閉め、先生に返答する。
「雪掻きが大変だなぁ。でも良い運動になるなぁ」
「‥‥先生は、ご自分の部屋で寝ないんですか」
「僕がいると迷惑かい?」
「そういうわけじゃないですけど‥‥」
よく見ると、先生が鎮座しているのは僕の布団の上だった。
「あの、そこは」
「わいのわいの皆と話してたけどよ、皆、先に寝ちまったのさ」
草刈先生を囲んで談笑している仲間たちの姿は容易に思い浮かぶ。
「先生そのまま僕の布団で寝ませんよね」
ん、と自らが胡座をかいている布団を見、手でひとつふたつ叩くと草刈先生は声を高くして笑った。寝ている皆が起きないかヒヤヒヤする。
「はは、すまんねぇ。藤川くんが来なかったら寝ちまってたかもなぁ。自分の部屋でもいいんだけれど、独りだとどうにも寒くってさ。ここでしばらく暖をとろうとしてたのよ。ご隠居は先生連中には部屋を誂(あつら)えてくれたけど、せっかくなら僕は子どもたちと同じ部屋がいいなと思っててさ。今度ご隠居に頼んでみるんだ」
「いまは冬だから皆と一緒でも温かいですけど、夏は暑くて堪らないですよ」
「それもまた良いねぇ。僕さ、弟と妹がいたんだけどさ、この寝所に来ると当時のこと思い出すんだよ。狭い座敷で雑魚寝したなぁってさ。いびきがうるさいだの寝相が悪いだの、そりゃよぉく喧嘩したもんさ」
「仲が悪いと喧嘩もしない、って言うくらいですから、仲良しだったんですね」
「そうだなぁ。いまはもう誰もいなくなっちまったけどな」
「え、そうなんですか」
ずっと立っているので足が冷えて痺れてきた。立ったまま右足で左足の甲をさする。それを見た草刈先生は、今度は声を殺して笑った。
「すまんすまん、藤川くん! 君の布団だったよねここは。悪かった悪かった。いやはや、かの豊臣秀吉公のように温めてるのさ」
「?」
「秀吉公が懐で信長公の草履を温めた逸話さ。君も知ってるだろう?」
「その話、懐じゃなくて背中に入れて温めた、って記述もあるらしいですよ」
「へ?」
「早坂先生がこのあいだの講義で話してました」
「ははあ、さっすが昌吹くんだなぁ」
「‥‥」
「僕が寂しさを紛らわせるためにただここに居座ってるとでも思うのかい? 違うのさ。僕が君の布団に座ることによって布団を温めてるのさ、秀吉公のように」
「‥‥最初からそのつもりでした?」
「江戸の人は秀吉公のことあんまり話さないけど、昌吹くんは教えてくれるんだね」
言いながら草刈先生は立ちあがって裾を直す。悪かったね、と首を掻きながら退いてくれた。
「おやすみ、藤川くん。君は僕の弟に似てるよ」
草刈先生のかすかに沈んだ声色に気づいたときには、襖はぴったりと閉められた後だった。もぞもぞと潜り込んだ布団はほのかに温かかった。
*****
廊下がバタバタと騒がしいので目が覚める。襖の隙間から射し込んでくる光で朝だと判った。‥‥なにやら胸が重い。金縛りというやつか、と思いながらゆっくりと半身を起こすと、真っ黒い毛玉が二つの黄色い目をぱちくりさせてこちらを見ていた。草刈先生のことを思い出していたら、いつのまにか眠ってしまったらしい。
「やしお?」
「にゃあ」
八塩が僕の胸の上で丸くなっていたのだ。温かいが、すこし重い。どうやって入ってきたのだろう。
「藤川くん!」
襖が思い切り開けられた。その音と振動に驚いた八塩は僕の胸を強く蹴って廊下へ飛び出してしまった。襖を開けたのは馬場さんだった。
「聞いたかい、藤川くん」
「なんです?」
「今日、柴沢先生が帰ってくるって話!」
「‥‥知りませんけど」
「俺あれから毎日ずっと奉行所へ通ってたんだ。柴沢先生は人を斬ったりしない、下手人じゃない、って」
「ええ?」
そういえば、馬場さんのことをあまり見かけないなとは思っていた。道場に籠っているのかと思っていたが、まさかそんなことをしていたなんて。
「お役人の話を盗み聞きしたんだが、どうやら柴沢先生の縄が解かれるらしくてさ!」
「盗み聞きしたんですか」
馬場さんの行ないについて僕はとやかく言えないが、この話が本当はだとしたら草刈先生を斬った下手人は柴沢先生ではないことになるかもしれない。それは喜ばしいことが、そうなると一体誰が草刈先生を斬ったというのか。
「ところで君はどうして奉行所に連れてゆかれなかったんだろうか。君は草刈先生が斬られた現場にいたのに」
それまで明るかった馬場さんの表情が一瞬鋭くなった。お前も捕えられるべきだ、と言わんばかりに。
「ご隠居が‥‥僕はいい、ってお役人に口をきいてくれたみたいで‥‥」
「ふうん‥‥柴沢先生のことは助けてくれないのか、ご隠居は」
微塵も納得していないのか、馬場さんはあからさまに不機嫌になり襖をぴしゃりと閉めた。結局、その日は柴沢先生は帰ってこなかった。
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