第四章 草刈春好

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 二、  それから僕はことあるごとに、屋敷内に漂う草刈先生の気配や残像を無意識に追っていた。  胡座をかいていた僕たちの寝所、柴沢先生を打ち負かしていた道場、子どもたちに混じって飯のおかわりを競っていた居間、長湯のあまりほかの者が入れずに困っていた湯殿‥‥  そして、最後に先生の姿を見た、あの庭。普段はきっちりと結われている髷が崩れ、幾筋か散っていた。額にかかる髪が不覚にも妖艶だと思った。体格がしっかりとしていて、その寝姿は流行りの浮世絵のように見えた。眠っているようにしか思えなかった。  振り積もった雪に散る赤、しっとりと重たく濡れた紺色の着物。あたりの景色と違わぬ青白い顔。いまになってじわじわと蘇る情景。‥‥先生は何故斬られた? 誰の手にかかった? まさか自害だとでもいうのか?  もしくは、自分が覚えていないだけで僕が先生を殺めてしまったのか‥‥。  僕は寒さなど気にもとめず、あの庭、ご隠居が立っていた縁側に腰かける。薄らと積もった雪の隙間から覗く黒く湿った地面が、深く深く開いた穴のように見える。庭一面に初めから白という色しか存在しないかのような景色は、あの晩から見ていない。  何故草刈先生が斬られなければならなかったのだろう。あの日なにがあったのだろう。どうして僕は先生の隣で眠っていたのだろう。  昼間なのに薄暗くどんよりと重く立ち込める曇天を仰ぎ、ひとつ白い息を吐く。ふいに腰かけている床板がギイ、と歪むのを感じ振り返る。そこには杖をついた五條堀ご隠居があの日のように立っていた。じっと僕を見おろしている。 「どうや、藤川はん」 「どう、というのは‥‥」 「わしのおつかいを忘れたんか」 「え? いや‥‥」  おつかい――柴沢先生と早坂先生のことを探ってほしいと頼まれたことだ。これは頼まれたあの日からずっと僕の頭のなかでぐるぐる廻っていた。忘れるわけない。 「もう半月が経つ。なにか掴めたんとちゃうか」  そんなに時が経っていたとは、と正直驚いた。勘違いした馬場さんに恨まれ、酔っ払った柴沢先生が奉行所の戸を叩き、早坂先生の薦めで大橋さんと芝居を観に行っているうちにそんなに時が流れてしまったのか。草刈先生がこの世から居なくなってそんなにも経つのか‥‥。 「し、柴沢先生はどうなりましたか」 「そうやなぁ。役人がちゃんと調べてくれてはるから、わしらにはどうにもできへんなぁ」 「ご飯とか、ちゃんと食べられてるんでしょうか」  ご隠居はふっと笑うと杖で二、三回床を小突いて、 「君が柴沢はんの代わりになるか」  と鋭い声で言った。 「え、いや、それは」  もしかしたら僕が投獄されていたかもしれない、ということを痛感した。ご隠居が役人に口をきいてくれたから僕はここにこうしていられるんだ。そこでハッと思いついた。柴沢先生のこともご隠居が口ききしてくれないのだろうか。先ほど馬場さんも言っていたじゃないか。ご隠居が僕だけじゃなくて柴沢先生のことも助けてあげていたら、僕が馬場さんにあんなふうに言われることもなかったんじゃないか。 「あの、ご隠居の一声で柴沢先生が帰ってこられるようになりませんか」  僕の言葉を聞いたご隠居は仰け反るほど大きく笑い、あたりを白い息が舞う。そのまま後ろへ倒れてしまわないか心配になった。 「君のときのように助けろと言うんやな。はは、甘いのう君は。わしが君を助けたんは、君が下手人やないと確信しとったからや。柴沢はんは違うやろ。自ら奉行所へ行ったんや。わしの言うとる意味は判るな?」 「わ、判ります」  ご隠居は笑っているが、声に棘があるのはありありと判る。 「誰が下手人か判らんから、わしは君におつかいを頼んだんやろ。な。そこへきて柴沢はんが自訴した。ほんまの下手人ならお縄になるやろし、違うたならなんもせんと帰ってくるやろ。それやのにわしが柴沢はんを返してもらうゆうて圧なんかかけてしもたらどうなる? 自ら出向いた柴沢はんに無礼やと思わへんか」 「すみません‥‥」  ん? ご隠居は、僕が下手人じゃないと確信していた? 何故そう思うのだろう。 「柴沢はんを助けることはできへん。せやけど顔を見に行くことくらいはできるで」 *****  奉行所へ行くのは、正直怖かった。やはりお前が下手人だろう、と捕らえられてしまうのではないか、柴沢先生にお前が代わりに捕まれと言われるのではないかと思ってしまったのだ。柴沢先生のことを心配しているというのは本心だ。だけど、自分の身が大事なのも本当のことだった。そのことをご隠居に告げると、ご隠居は呆れたような気の抜けたような表情になった。 「柴沢はんはもうすぐおらんようになるんや、奉行所から」 「そう、なんですか」 「そや。牢屋敷へ入ってまう」 「牢‥‥」  本当に罪人になってしまうのか、柴沢先生は‥‥。 「牢獄へ入ったらよっぽどのことが無いと二度と出られへん。出てくるときはそりゃ死人になったときやなぁ」 「‥‥」  奉行所に到着すると門前で数人のお役人に出迎えられた僕たちだったが、ご隠居一人だけ建物のなかへ入ってゆき、なにを誰とどう話したのか判らないがあとから僕も呼ばれ、柴沢先生との面会が許されたようだ。座敷に通され肩をすぼめて正座する。火鉢の前に先に座っていたご隠居はゆったりと構えて障子の染みなどを眺めている。  障子を見つめているご隠居を見つめていると、すうっと静かに障子が開いた。明らかに偉い人であろうなという出で立ちのお役人――柴沢先生よりもすこし歳上そうな――が、ご隠居を見て深々と一礼した。 「五條堀殿、久々ゆえゆっくりと語り合いたいところではありますが、某、野暮用がありまして」 「うむ。君の顔が見られただけでわしは満足や」 「では」  明らかに偉い人であろうなというお役人は僕を一瞥するとわずかに口元をゆるめ、開けたときと同じように静かに障子を閉めた。 「ご隠居、いまの人は」 「お奉行や」 「え!? お奉行と知り合いなんですか?」 「まぁな。長いこと江戸におったらお奉行と知り合うこともあるやろ」 「そうですかね‥」  そんなことができるのはご隠居だけでは、という言葉は言わなかった。火鉢の炭がわすがに弾ける音がする。 「君は、わしがなんにもしてへんと思うとるかもしれへんけど、わしかていろいろやっとるんえ。お奉行にすこし待っとくれと言うてあるんや」 「すみませんでした‥‥僕、生意気な口をきいて‥‥」 「ふふ、もうええ。君が柴沢はんを心配しとるのがよぉく伝わったわ」 「そりゃあ、もちろんですよ。あの、面会なんてできるんですね」 「わしでなかったらでけへん」  一体ご隠居は何者なんだ‥‥。そういえば、ご隠居は何歳なんだろう。僕が五條堀屋敷に来たときと見た目が変わっていない気がする。還暦は超えているとは思う。杖をついているし。きれいに結われた髷は灰色がかっている。目尻にも頬にも、困ったときに掻く額にも皺が深く刻まれている。 「なんや。爺の顔なんぞまじまじと見おって」 「す、すみません。まだ、会えないのかなと」 「柴沢はんの準備ができたら呼びに来てくれるんや。それを待っとる。さすがに罪人を座敷へは呼べへんからな」 「なるほど――」  それからしばらく待った。そろそろ暮れてきたかと思うころに障子を開けたお役人が告げてきたのは、準備が整ったというものではなく、柴沢先生が逃亡したという報せだった。  柴沢先生との面会ができなくなり、僕らは帰るしかなかった。ご隠居もかなり驚いたようで、いつものような冗談まじりの会話もほとんどしなかった。にわかに騒がしくなり、帯刀したお役人が忙しなく行き来するのを横目に僕は肩をすぼめるしかない。帰り際、僕らを出迎えたお役人のひとりがご隠居になにか言っていたが、僕には聞こえなかった。ただ、ご隠居は幾度も深く頭をさげていた。自らよりも明らかに歳下の男に。  屋敷に着いて履き物を脱いでいると、ご隠居が一言、 「残念やったなぁ」  とだけ言った。声には寂しさとわずかの怒りを感じた。
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