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二、
眩しさと、足の冷たさで目が覚めた。僕はいま、どこにいる?
ゆっくりと首を動かしてみると、すぐ隣にはうつ伏せで眠っているきれいな顔があった。草刈(くさかり)先生だ。どうして僕らはこんなに白くて寒いところで眠っているのだろう。見あげている白も、僕のまわりに降る白も、同じ色をしている。
「雪か」
軋む身体を無理やり起こし、僕はあたりを見まわす。冷たさの原因が判った。中庭一面に降り積もった雪のなかで、僕たちは横になっていたらしい。どうしてこんなところで、しかも裸足で。
‥‥先生が居るということは、間違いなくここはご隠居のお屋敷だ。そもそも僕や先生がこの屋敷以外に寝泊まりすることなんてなかった。
明るさと寒さから、朝だということが遅れて判ってきた。冷たさが痛みへと変わってゆく。自らの着物や髪に積もった雪を払い、傍らで眠っている草刈先生を揺り起こす。普段はきっちりと結われている髷が崩れ、幾筋か散っている。額にかかる髪が不覚にも妖艶だと思った。体格がしっかりとしていて、その寝姿は流行りの浮世絵のようだった。
「先生、風邪をひきますよ」
草刈先生の着ている紺色の着物に積もった雪が、新たな模様をつくりだしていて美しかった。そんなことを考えるほど、時間がゆったり流れているように感じる。身体に乗っていた雪の量を見るに、そんなに長い時間ここで寝ていたわけではなさそうだ。
「先生、ほら――」
横たわる先生の身体はとても冷たい。そりゃそうだろう、こんな雪のなかで眠っているのだから。凍えてしまう。昨夜から降っていた冷たい氷の粒は、ひとつふたつふわふわと舞っているものの、止んだばかりと思える。
手足の感覚が無いが、とりあえず僕は立ちあがる。よろけながらも凍えた身体を伸ばしてみる。眩しさに目が慣れてきたころ、僕の目に映った光景は――見慣れた中庭に、真っ白な雪と、横たわる先生。そして‥‥
「え」
それは血だった。よく見ると、先生の身体のまわりにその赤は散っている。かすかに生臭い血の臭いが漂っていることに気がついた。
「草刈先生‥‥」
綺麗なその顔が、眠っているのではないということに気がついた。なにがどうなっているんだ。もともと色の白い男の人だとは思っていたが、純白の雪にも負けないほどのこの白さは息絶えているからなのか‥‥。僕は横たわる先生を見おろしたまま、動くことも声を出すこともできずに静かに雪の降るなかを立ち尽くした。
どれほどの時が経ったのか判らない。気がつくと遠くの空に昇った陽の光が僕らを照らし、きらきらと雪の粒に反射している。ふと、ちりん、と鈴の音がしてそちらのほうに頭(こうべ)を巡らせた。ずっと冷たい地面の上に横になっていたからなのか、後頭部がずきずきと痛む。起きたばかりのときには、この痛みには気がつかなかった、と思いながら顔を顰めながら視線を動かす。雪の白によく映える真っ黒い猫が縁側にひょいと飛び乗った瞬間を目にした。金色の鈴がついた赤い首輪をしている‥‥おそらくあの人‥‥の飼い猫だ‥‥。黒猫はじっとこちら一瞥し、くるりと背を向けてゆらゆらと尻尾を揺らしながら屋敷の奥へ消えてゆく。
ふと思い出した、昨夜のこと。厠へ行きたくて外へ出て、その帰りに。それでいまのいままで庭で眠っていたのだろうか。そのときすでに草刈先生は倒れていたのだろうか。記憶が曖昧だ。
「藤川(ふじかわ)はん、どうしてそないなとこにおるの」
突然の人の声にハッとして振り返ると、屋敷の主――ご隠居の五條堀弥太郎(やたろう)が、皺の深く刻まれた額を手のひらでこすって僕に向かって困り顔をしていた。出身の大坂からわざわざ取り寄せたという豪華な反物で織られた着物をまとい、足腰が悪いわけでもないのに洒落のためについている杖を携え、寺子屋である自身の屋敷の縁側に呆然と立ち尽くし、呼吸のたびに白い息を吐き出している。
「いつからそうしておるのや 」
それは僕が訊きたい。どうして僕は雪のなかを草刈先生と倒れていたのか。先生はなぜ血まみれで、そして、なぜ息をしていないのか。
陽がすっかり昇ってから、僕は、訪ねてきたお役人たちに捕らえられてしまった。どうやら誰かが、中庭で横たわる僕たちふたりを見つけて奉行所へ走っていたらしい。すでに雪は止み、しっとりと白く積もる地面に跪かされ、僕は縁側に立つ五條堀ご隠居を見あげる。お役人は荒縄で僕の腕を後ろ手に縛った。これでは裁きを受ける罪人のようではないか。
師匠たちが忙しなく屋敷内を歩きまわり、帯刀しているお役人やら十手を持った岡っ引きやらもあちこち駆けまわり、横たわる草刈先生の傍らでなにやら話している。うつ伏せの草刈先生のまわりには多数の赤い斑点が散っていた。着物が乱れたようすもなく、しかし裸足で、その足の裏は泥で汚れている。足袋や下駄の跡がいくつもついているが、それはきっとお役人たちのものだろう。これは眠っている、と言われれば素直に頷いてしまうほど、草刈先生の姿はとてもきれいだった。
「部屋のなかは?」
ご隠居が訊ねると、僕を縛ったのとは別の若いお役人が首を横に振った。
「見ないほうがいいです」
その言葉に、僕はこの縁側に面した草刈先生の部屋をご隠居の肩越しに見た。障子は固く閉ざされているが、障子紙にも雪と同じように赤い斑点がいくつもできていた。
「お前がやったのか」
僕を縛ったお役人が訊いた。
やったとは、なにを? お役人の顔もご隠居の顔も、険しくて苦しそうだ。
「五條堀先生、僕にも判らないんです。目が覚めたら、隣に草刈先生が」
「嘘を言うな! これでお前が斬ったのではないか」
そう怒鳴ったのはご隠居ではなく、お役人だった。そして、血で汚れた脇差を取り出した。
「それは、草刈はんの物や」
五條堀ご隠居が言う。
確かに草刈先生の持ち物だった。生まれが下級武士だという草刈先生は、普段、帯刀はしていなかったが立派な刀を持っていた。それでも、脇差を護身用に肌身離さず持っていたことは、僕も知っている。
「僕は知りません。なにも知らないんです。草刈先生はどうしたんですか、ただ眠っているだけではないのですか」
「でたらめを言うな小童! この脇差はお前の倒れていたすぐ傍に落ちていたのだ。お前がやったのではないのか」
僕を縛っている縄を、お役人がきつく引っ張る。腕に食い込んで痛い。
‥‥脇差なんてさきほどはあったか? 雪に埋もれて気がつかなかったのだろうか。
「まぁ、落ち着いてくだされ。わしは藤川はんがやったとは思えへん。藤川はんが言うとることは嘘だと思えへんのどす」
「ご隠居‥‥。門下を疑いたくないのは判りますが、人が死んでおるのですぞ。いちばん怪しいこやつを疑わないでは我らも仕事になりませぬ」
「いまはとにかく、草刈はんを奥の座敷へ運んでほしいのや。しばらく、彼を暖かいとこで休ませてやりたい。いまのいままでこないな冷たいところにおって、可哀想や」
ご隠居は杖を持つ手をさすり、運ばれようとしている草刈先生をじっと見つめている。――なにか、訴えなければ。なにがどうなっているのか判らないが、僕が先生を手にかけていないことをちゃんと言わなければ。
「五條堀先生、僕にもなにがなにやら判りません‥‥! 昨夜、ちゃんと寝所でみんなと布団に入ったのに」
ご隠居は、いつものような優しい顔つきになった。
「‥‥君に怪我はないんか」
「え。あ‥‥たぶん」
僕は自分の身体を見、すこし動いてみたが異常は無かった。強いて言えば、縛られている腕と地面についている膝が痛いくらいだ。雪で濡れた着物もしっとりとしていて気持ちが悪い。
「そうか、そやったら良い」
五條堀ご隠居はお役人に目配せした。するとお役人は不満そうな顔をしたが、僕の縄を解いてくれた。ご隠居は僕の震える身体を引き寄せ、自分が羽織っていたものを僕の肩にかけてくれた。
そこへ、屋敷の奥からばたばたと足音を鳴らし、二人の先生が駆けてきた。
「この騒ぎは一体なんです?」
黒髪をゆったりと背中に流し、それをひとつに結わえた早坂昌吹(はやさかしょうすい)先生が言った。髷を結っていないその顔立ちと体躯の細さは女子と見紛うばかりだ。早坂先生はご隠居の肩越しに庭の惨事を見た。
「これは‥‥」
その言葉に、同じように庭を覗き込んだ柴沢克実(しばさわかつみ)先生は声を詰まらせた。早坂先生とは対照的に、ガタイがよくて男らしい。二人とも、そして草刈先生も三十路をいくつか過ぎたころだ。
「は、春好(はるよし)‥‥!」
裸足のまま庭へ降りようとする柴沢先生を若いお役人が止める。
「いけません。草刈先生はもう‥‥」
その場にくずおれる柴沢先生。一面に積もった白い雪と、横たわる男と、血と。
「いまから草刈はんを座敷へ運ぶから、二人も手伝うてくれへんか」
五條堀ご隠居が優しく柴沢先生の肩へ手を置く。早坂先生は唇を噛みしめたまま、雪に横たわる草刈先生を見つめている。
「こいつや! こいつが春好を斬ったんや! こいつしかありえへん!」
勢いよく柴沢先生は立ちあがり、早坂先生の着流しの襟をつかんだ。普段からすこし乱暴なところがある柴沢先生だが、こんなに取り乱しているのは初めて見る。お国言葉もいつもは気にしてなおしているのに。
「聞き捨てなりませんね。あなたが斬っていないという証拠はあるんですか、柴沢先生」
汚いものでも触るかのように、早坂先生は柴沢先生の手を掃った。
「お二方、どういうことでしょう」
お役人が問う。
「騙されてはあかん。春好を斬ったのはこいつや。人斬りの話を鵜呑みにしてはいかん」
「落ち着きなさいよ、あなた」
「お前こそ、やってないという証拠があるんか!」
早坂先生も柴沢先生も語気を強め、再びつかみかかりそうになっている。
「二人とも‥‥草刈はんがまだそこにいるんどす、とにかく喧嘩はやめなさい」
ご隠居が杖で廊下を軽く叩いた。
「いまは、草刈はんを暖かい部屋で休ませてあげなさい」
ご隠居の言葉に二人は落ち着いたようだったが、血相を変えて睨みあっているのを僕は見逃さなかった。
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