第一章 消失

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 三、  草刈春好先生。歌を詠むのが得意で、古典をおもしろおかしく教えてくれる良い先生だった。剣術にも長けていて、木刀を持つと人が変わったように厳しくなった。 「藤川くんは、刀を持つよりも筆を持ったほうが似合うかもね」  これが、僕が最後に聞いた草刈先生の言葉だった。  草刈先生と柴沢先生もご隠居と同じ西のほうの生まれだというが、お国言葉をなおすのに苦労していた柴沢先生に比べ、草刈先生は流暢に江戸の言葉を喋った。それでも時折、五條堀ご隠居と同じような言葉遣いをしているのを見かけると、違う人間のように感じた。 ***** 「頸と、あとは腹をいくらか斬られていたみたいだ」 「自害かねぇ」 「どうだろう。五條堀屋敷で働いていて、不満なことがあったのか‥‥誰かに恨まれるような人だったのか‥‥」  草刈先生の遺体が見つかってから幾日か経ち、五條堀ご隠居がひっそりと葬儀を執り行い、立ち会ったお役人たちが話していた。あれから草刈先生の身体は一度屋敷のなかへ運ばれたが、検分のために奉行所へ連れてゆかれた。その後、ご隠居と柴沢先生、早坂先生、そして幾人かの師匠たちが檀那寺に出向き火葬等を済ませていたので、僕ら子どもたちはちいさな甕に入った草刈先生との再会となった。こんなちいさな物に一人の大人が入ってしまっているのか‥‥。  お役人たちの言うように、ご隠居の屋敷はそれなりに有名で、武家の屋敷にだって負けないくらい立派だ。ちいさな道場もあるし、寺子屋にしては大きいが、先生たちも寺子たちも寝泊りさせてくれる。  この五條堀屋敷は寺子屋でありながら、半ば駆け込み寺のようなところもあった。というのも、能はあるのにふらふらと遊びまわっている若者を見つけると、うちで働かないかと声をかけ、たちまちいろんな人を連れてきてしまうのである。草刈先生と柴沢先生、そして早坂先生もそうして拾われた人たちだった。かくいう僕も数年前、傾きかけた長屋でぼんやりと母の亡骸を見つめているところをご隠居に拾われた。  寺子屋の体なので読み書きを教えるのはもちろん、剣術や茶、音曲なども教えてくれる師匠もいるので、一通りの稽古事もここで習える。お金が無く行くあても無い幼子たちにはありがたく、食うに困っている師匠――大人たちも救われている。ご隠居は僕も含め寺子たちからお金は取らないのに師匠たちにはちゃんと駄賃を与えている。どこからそんな銭が湧いてくるのか不思議でしょうがなかった。隠居する前になにをしていたのだろう。着ているものから察するに京で呉服屋でもやっていたのだろうか。  ご隠居の元で習い、やがて巣立ってこの広い江戸で活躍するかつての子どもたちが大人になりご隠居を訪ねてくることもあるため、きっとその人たちが恩返しでなにやら支援してくれているのもあるかもしれない。  こんなに良くしてくれる寺子屋なんて噂にならないわけがないが、邪なことを企んでいるような金持ちや、ご隠居の資金を狙っているような浪人たちには目もくれなかった。本当に困っている者たちを見極め、屋敷に入れる。袖の下をちらつかせたりする輩には容赦なく、恐ろしい剣幕で追い返すのを一度だけ見たことがある。  新たに降り積もる雪で、中庭は、なにもなかったかのように白く消されてしまった。 「藤川はん、ちょっと」  草刈先生の葬儀が終わったあと、屋敷に戻ってきてご隠居に声をかけられた。哀しみの表情に疲労が加わり、いつもの元気が無い。 「死んだら、焼いちゃうんですね」 「ん‥‥そうやな‥‥大坂では亡うなった人は焼いて御骨にするんや。ここは江戸やけど、草刈はんもこれで生まれに戻れたやろ」  そういえば、もうあまり覚えていないが、母のことも同じようにしてご隠居が弔ってくれたっけ。なんの縁もない、しかも襤褸(ぼろ)のような生活をしていた僕たちにちゃんと人間として接してくれたのがご隠居だった。 「君にな、頼みがあるんやけど、早坂はんと柴沢はんなぁ‥‥まだいがみ合っていてな、どうにもならんのや」  事件の日、草刈先生の遺体に泣きつく柴沢先生と、それを冷ややかに見つめていた早坂先生の姿を思い出す。 「はぁ‥‥。普段からあんまり仲の良い印象はなかったですけど、ここまで不仲だとは‥‥。早坂先生も柴沢先生も、草刈先生とは仲が良かったのに」 「そやからこそ、二人とも互いが犯人だと思っとるみたいなんや。奉行所はただの人斬りの仕業か、本人の脇差が傍に落ちとったから自害かどちらかやと言うてる。調べてはいるらしいけどな。ほんでもわしは二人のことが気になる。仲違いしたままなんて、そないならものを教えるなんてことは満足にでけへんやろう」 「そうですね‥‥。そういえば、僕はもう疑われてないんでしょうか」 「君も十七とはいえ、ひとまわりも歳がちゃう大人を、しかも剣術に長けた男を簡単に斬れるやろうかとお役人も考えたらしい」 「本当に疑いが晴れてるといいんですけど‥‥」  五條堀ご隠居は、額の皺をこする。困ったことが起きると、そうするのが癖になっているらしかった。 「ほんで藤川はんに頼みというのがやな、二人のことを調べてほしいのや。二人の話を聞いて、どう思ったかわしに教えてほしいのや。もし、下手人が屋敷のなかにおったとして、それが見つかるかもしれへんしな」 「僕がですか? 二人のことは僕よりも五條堀先生のほうがよく知っているのでは?」  まったく、冗談じゃない。覚えがないとはいえ、現場で眠っていたというだけですでに疑われたというのに、僕が二人に接触して面倒なことにならないだろうか。 「二人ともなにか隠してるようなんや。わしが問い質しても核心に迫るようなことははぐらかしとる気がしてなぁ。わしはうまく引き出せなかったのや。もちろんお役人も二人に話は聞いとるけどやな」 「それをこの僕がこなせるとは思えませんが‥‥」 「ほかのモンよりはええやないか。君だって疑いをちゃんと晴らしたいんと違うか? それなら言うことを聞いといたほうがええやろう。己が下手人ではないというなら、ほんまの下手人を探しい。それに、一旦君を自由にするように口を利いたんはわしや。頼まれてくれるな」  強い力で肩を叩かれた。じっと僕の目を見るご隠居。その表情から、僕は従わざるを得ないだろうと思った。状況から見て僕がいちばん怪しいと思われて、お役人にもいろいろと訊かれたが、僕は眠い目をこすりながら厠へ起きたこと、そしてなにかに転んで気がついたら隣で草刈先生が倒れていたことしか覚えておらず、同じことを繰り返すのみになっていた。お役人も痺れを切らしたし、ご隠居の藤川はんには人斬りなんてでけへん、のひと声で簡単に解放されたのだった。一応、恩があるしご隠居の言うことを聞いておくか‥‥。
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