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プロローグ
濛々と漂う煙の中に傾いたマリア像が見えた。
激しい揺れで男は床に転がった。続けさまに爆発音が響き咄嗟に両手で頭を覆った。あたりは土煙のような埃が舞い、壊れた椅子に、赤や黄色や青のガラス片が散らばっている。
──爆発音が少しづつ遠ざかっていく。
(間違いなくこの教会いるはずだ!)
男は意を決して起き上がった。恐る々周りを見渡すと、教会の礼拝堂に並んでいた長椅子は、統一性もなく様々な方向に散らばって、割れたステンドグラスの隙間から月の光が差し込んでいた。
「誰かァ〜! いないかァ〜!! いたら返事をしろ〜!!」
四方を見渡し必死に声を掛けた。喉の奥がひりついて、心臓が早鐘のように高鳴っている。
ドドドドドォ……ドーン !! 腹の底で共鳴するような爆音とともに、激しい揺れが再び襲ってきた。急に動悸が激しくなり、脇に冷たい汗が流れる。男は、一気に背中が凍りつくような死の恐怖を感じて固まった。
「空襲だァ!」
耳を劈くサイレンの音と爆発音。
ああっ、もうだめだ──。
そう思って目をつむり覚悟した。その瞬間である。後方で凄まじい爆発音がしたと思うと、まるで巨大な生き物の舌が、軽々と身体を掴み投げ捨てるかのように、男は後方に跳ね飛ばされた。
──まるで映画のワンシーンだ。
男は宙を泳ぐように叩きつけられ、地面を転がっていた。地面が近づいてきた瞬間に、咄嗟に両手で頭を庇っていた。転がりながら意識は遠のいていた。
暫くして彼は、朧気ながら光を視界に捉えた。その瞬間に全身に痛みが走り、
「うっ、……。」
鋭い痛みに思わず言葉が反応した。痛みをこらえながら手足に力を入れると何とか動く。
どうやら…… 生きているらしい。痛みに顔を歪めながら、近くに転がっていた棒切れを支えにして何とか立ち上がった。
すると誰かの声が耳に届いた。慌ててあたりを見渡す。
マリア様の頭と胴体が離れている……。
こんなに酷い光景は初めてだ。壊れた頭の部分には、はっきりと顔の陰影が見て取れた。
ひどく痛む足を曳ずりながら、近づいたときである。
声が聞こえた。確かに女性の声だ……。
男は痛みを堪えて、目を大きく見開くと、祭壇の奥を覗きこんだ。見ると祭壇の脚元に人が倒れている。微かだが動いたように感じた。その祭壇の床には、赤黒い血だまりができていた。
「大丈夫かァ〜!!」
大声で叫ぶと、急いでその人のもとへ駆け寄ろうとした。が、思うように身体が動かない。薄明りの中で、うつ伏せで何かを抱えるように女性が倒れ込んでいた。
男は直感した。間違いなく彼女だ!
「まってろー!! 今助けるからぁーっ!」
できうる限りの声で叫んだ。
負傷した足を引きずりながら、漸く女性に辿り着くと、女性は身を呈して庇うように何かを抱え込んでいた。彼女を必死で抱え起こす。と、そこにはクーハンがあり、中では産着に包まれた赤子が静かに目をつむっていた。赤子の産着は彼女の脇腹からの出血により、赤く染まっていた。苦痛で歪む女性の表情が、男の声に反応すると、薄目を開け、驚いたような表情をみせた。
「ああっ! マリアさま……。 最後に奇跡を与えて下さったのですね……」
女性の震える手が渾身の力を振り絞り、ゆっくりと男の汚れた頬に近づいた。
「やっと… やっと、……会えましたね……」 そう言った。
彼女がさらに何かを言いたげな気配を察し、男は女性の口元に自らの耳を近づけた。すると彼女は羽音が微かに響くように囁いた。
「愛しい人……。 こどもを、おねがい…… します」
男は涙と鮮血に染まった蒼白の頬に、自らの頬を押しつけ優しく髪をなでた。
「すまない。本当にすまなかった……」 だだ、その言葉を繰り返した。
いつ死んでもおかしくない状況だ。そんな中、女性はまだ懸命に何かをせがむように手を動かす。男の頬に触れていた彼女の手が力なく落ちた。しかし床に落ちた細く綺麗な指が、まだ何かを探している。
「ロザリオか!」
そう直感すると、彼女の側に落ちていたロザリオを咄嗟に掴み、手に握らせた。
「ああっ、……」
声にならない言葉を発したかと思うと、彼女はゆっくり瞼を閉じた。光を失った女性の瞳が、薄く開いたまま止まっている。その薄い瞼を男が優しくなでると、彼女の人生は永遠に閉じた。
男は彼女を抱いたまま、時が止まったかのように動かなかった。果てしなく続くかと思われたこの闇の世界に、男の慟哭だけが響ていた。
どれほどの時が過ぎたのか……。
雲から覗く陽の光と傾いた屋根の軒に影が射したことで、夜の惨事から一夜が明けたことだけは分った。気が付くと、瓦礫と家屋の焼け焦げた匂いが充満する街の中にいた。
「漸く……、夜が明けたのか──」
力なく呟いた男は、石礫に躓きそうになりながら、鮮血で染まる産着に包まれた赤子を抱きかかえていた。惨状を前にして、曳ずる足の痛みの感覚すら失っていた。
泣き疲れたのか。赤ん坊は、煤で汚れたぷっくりとした頬と、小さな襟元から覗く桜色の肌が、産着の隙間からささやかに上下することで、眠っていることが分った。
どこに向かっているのか……。
彼は、誰かの意思でもあるかのように、唯々、足を前に進めていた。辛うじて残っている家屋や路地に散らばる石垣の残骸を避けながら、曖昧な意識の中でなだらかな坂を高台に向かっていることだけは分かった。そうして、気がつくと見覚えのある寺院の山門の前に立っていた。目の前には大きな扁額が横たわっている。落ちた扁額は所々が失われてはいたが、辛うじて「南空院」の文字が読み取れる。山門は屋根の部分が一部壊れていたが立っていた。
男は傷ついた左足を曳ずりながら、山門をくぐると、寺院の中に足を踏み入れた。風雨に耐えて、長く久しい古刹であったはずだ。周辺の建物の半分以上が崩壊していたが、奇跡的に本堂は無事であった。その本堂の中から灯明が洩れている。その明かりをみて男は安堵した。
──寺には人が残っている! 本堂に向けて力の限りの声を上げた。
「誰かぁーっ! どなたかぁーっ! いませんか!」
そう言って正面の格子戸に手をかけようとした途端、内側から戸が開いた。その瞬間である。男の瞳には、燭台の明かりに照らされた金剛不動明王の姿が大きく映し出されていた。
「気を確かに! しっかりしなさい!」
声に混じって、微かに水泡の弾けるような白濁音が耳元で揺れた。男の意識は碧く深い海にゆっくりと沈んでいった。
── 耳の奥で波浪るようにキーンという金属音が聞こえてきた。
そして、着陸時のドスンという振動音と身体にかかる飛行機の重力圧で、月森シンスケは目が覚めた。友人の葬儀に出席した帰路であった。降り立った小牧空港のエプロン照明塔の光が、小雨の風に流れる様子を窓越しに映し出していた。
──不思議な夢だった……。
「また、親しい人が逝ってしまった……」 虚無感と喪失感。
彼は、鉛を曳くような足取りで、改札口に向かって歩き出した。
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